鳥学通信 no. 34 (2012.2.8発行)

 

学会ホーム頁に戻る

これまでの研究生活を振り返って

樋口広芳
東京大学大学院 農学生命科学研究科 生物多様性科学研究室

早いもので、本年(2012年)3月末に東京大学の定年退職を迎える。研究らしい研究を始めたのが、大学学部3年の頃だから、研究生活40年以上ということになる。まだまだやりたいことはいっぱいあるので、これで研究生活が終わりということではないが、現役の研究生活は一応終了ということになる。

これまでの研究生活を振り返り、何をやってきたのか、どんな成果をあげたのか、何が楽しかったのかなどについてまとめてみたい。

鳥との出合い

鳥の研究らしい研究を始めたのは大学の学部3年のころではあるが、そもそもどのようにして鳥と出合い、鳥類研究を志したのかについてまず述べておきたい。

私は子供の頃から鳥や自然に関心があった。小学生から中学生のころにかけて、昆虫採集、魚釣り、カエル捕りなどに興じていたが、鳥にはとくに強い関心をもっていた。中学生から高校生の頃には、いろいろな小鳥とともに、自宅の庭でキンケイ、ギンケイ、ハッカンなどいろいろなキジ類を飼育し、繁殖させた。卵を孵化させるのには、チャボやシャモに卵を抱かせる以外に、ひよこ電球とコタツ用サーモスタットを使って自作した孵卵器も利用した。自分自身の努力で新しい命が次々に誕生してくることに、大きな喜びと感動をおぼえた。一方、野山をかけめぐり、いろいろな植物、昆虫、魚、貝、コウモリなども観察、採集した。当時使っていた図鑑には、隅から隅まで目を通した。

思い返してみると、私はいつも生命(いのち)に関心があった。卵から孵化してくるかわいらしいひな、それが生長して目のさめるような美しい生きものに変身するキジ類、卵から幼虫が生まれ、やがてさなぎとなり、美しい成虫に変身するチョウ、種子や球根から芽生え、色とりどりの花を咲かせる植物などなど。こうしたいろいろな生命とその営みを身近で見ながら、日々、おどろき、感動していた。とくに、鳥類の美しさと興味深い行動は、野外でも飼育下でも見ていて飽きることがなかった。
鳥類学者になりたい、と思うようになったのは高校時代。1965年、当時、宇都宮大学の教授であった清棲幸保先生が、『日本鳥類大図鑑、I~III巻』(講談社)を出版した。このころ、日本の鳥類について、とくに生態についてくわしく書いてあるのは、この本しかなかった。高価な本であったため購入することはできなかったが、図書館などでながめながら、よし、絶対、鳥類学者になるぞ、と思った。大学は迷わず宇都宮大学へ。

清棲先生は私が入学した年の3月に定年退官していたが、非常勤講師で週に一度、講義に来られていた。清棲先生には日光や塩原などに連れていっていただき、野生の鳥の生態、あるいはその観察や撮影の方法などについていろいろなことを教えていただいた。宇都宮には高校時代に飼育していたキジ類をもっていったが、野犬に襲われて全滅してしまった。それを機に飼育からは離れ、野生の鳥の生態観察に集中することにした。

研究との出合い

栃木県には日光や塩原、那須があり、鳥の観察には事欠かなかった。また1960年代から70年代、宇都宮市内の野山にはサンコウチョウ、ヨタカ、ヒクイナなど、今ではほとんど姿を消してしまった鳥たちをふくめて多くの鳥が生息していた。しかし、研究するとはどういうことなのかが、いま一つつかめていなかった。

そんな折、清棲先生から伊豆諸島の三宅島がおもしろいところだと教えていただいた。下村兼史(1936)の『北の鳥、南の鳥―観察と紀行』(三省堂)が重要な情報源であることも教えていただいた。そこに記述されていた三宅島の自然と鳥の世界に魅せられ、早速出かけてみることにした。学部生3年の夏だった。三宅島には、信じられないくらいたくさんの鳥がいた。種数は限られていたが、個体数、密度が並はずれて多かった。アカコッコ、コマドリ、イイジマムシクイ、ヤマガラ、カラスバトなど、鳥ってこんなにたくさんいるものかと感動した。また、それらの鳥の多くが本州にすむ同種あるいは近縁種といろいろな点で異なっていることに興味をもった。それ以来、三宅島、伊豆諸島、そして島の鳥に大きな興味をもつようになった。

この頃、山階鳥類研究所の浦本昌紀氏(のちに和光大学教授)のもとに鳥の生態研究に励む若手研究者が集まって勉強会を開いていた。私もそこに加わって多くのことを学んだ。とくに、この勉強会を通じてE. MayrのSystematics and the Origin of Species (Columbia UP, 1942)やAnimal Species and Evolution (Harvard UP, 1963)、 D. LackのDarwin’s Finches (Cambridge UP, 1947)、 R. H. MacArthur & E. O. WilsonのThe Theory of Island Biogeography (Princeton UP, 1967) などに出合い、島の生物学研究により関心をもつようになった。

博士課程は東大の林学課程へと進み、森林動物学研究室に所属した。博士論文のテーマには、本州本土と伊豆諸島のヤマガラの比較生態を選んだ。伊豆半島南部の南伊豆にある東大の演習林の一つ樹芸研究所と、伊豆諸島の三宅島との間を行き来しながら、採食場所、採食方法、食物などの採食生態と、産卵期、一腹卵数、繁殖成功率、育雛期間などの繁殖生態、また個体識別にもとづく社会構造、採食生態と関連した形態上の特徴などについて調べた。さまざまに興味深い結果が得られ、無事、博士号を取得した。1975年、27歳のときだった。

博士号を取得したのち2年間は、台湾、ソ連(当時)、アメリカ、カナダなど、海外のあちこちを訪問し、いろいろな研究者と交流を深めた。1977年には、東大農学部の助手に採用された。

赤い卵の謎にとり組む

その後、島の鳥類研究は、小笠原諸島、トカラ列島、先島諸島などをもふくむ日本各地の島々で、今日に至るまで続けている。この過程では、既存の文献調査や野外観察の結果にもとづき、日本列島におけるキツツキ類各種の分布と共存についてもまとめた。
一方、島の問題にこだわることなく、キツツキ類以外の近縁種でも、採食生態や形態の違いと共存のあり方について研究した。セグロセキレイとハクセキレイ、ハシブトガラスとハシボソガラスなどについての比較研究が代表的なものである。これらの研究を行なっていた1970年代、1980年代には、Martin L. CodyやJared Diamondらによって類似の研究が欧米でも活発に行なわれており、近縁種の共存やギルド構造をめぐる群集研究についての論文が量産されていた。

近縁種間の競合、共存をめぐる私の研究の中で、広く知られるようになったのが、カッコウ類の托卵をめぐる研究だ。のちに『赤い卵の謎』(思索社、1985年)の中にまとめられる研究で、概要は次のようなものだ。

「赤い卵の謎」とは、ホトトギスがいない北海道で、ホトトギスになりかわってウグイスの巣に赤い卵を産み込む托卵鳥がいるのだが、それはいったいだれなのかという謎である。私がこの問題ととりくむことになった1970年代後半当時、旭川では、「犯人」をめぐって意見が二つに分れていた。一つは「カッコウ説」、もう一つは「ホトトギス説」である。「カッコウ説」をとる人たちは、旭川にはホトトギスがいないことを重視する。また、赤い卵が托卵されている巣のそばにはカッコウがよくいるとも主張する。「ホトトギス説」をとる人たちは、たしかにホトトギスの声は聞かれないが、それはいないということの証明にはならない、と言う。また、日本のどの鳥の本を見ても、ウグイスの巣に赤い卵を産み込むのはホトトギスだと書いてある、と主張する。
犯人探しは、托卵されそうな巣のそばに潜んでいて、やってきた鳥を確かめればよいのだが、これはどうしてなかなかそう簡単なことではない。まず、托卵の現場を押さえるというのは、非常にむずかしい。張り込んでいる巣のすべてにやってくるわけではないし、いつくるかもわからない。また、やってきても、巣の中に入っている時間はほんの数秒であり、しかもカッコウ類の姿は互いによく似ているのである。

私は現地の協力者とともに、赤い卵が托卵されているウグイスの巣を探し、その赤い卵からかえるひなを調べることによって、犯人を特定することにした。カッコウ類の成鳥の羽色はよく似ているのだが、巣立ち前後のひなの羽色は種によって違っている。また、羽色が比較的よく似ているホトトギスとツツドリのひなは、体の大きさによって区別ができるのである。
調査を始めてから2年目になって、ようやく何羽かのひなを育てることができた。ひなの飼育は問題解決の鍵をにぎるだけに慎重に行なわれたが、羽色の特徴が明らかになる中で、日々の飼育は楽しく、刺激的なものだった。結果はどうだったか。このひなたちはみな、ずんぐりとした体つきの、全体に黒い羽色の鳥になった。かれらは、カッコウでもホトトギスでもなく、なんとツツドリだった。

この赤い卵の謎をめぐる研究は、今日に至るまで続いている。最近の研究によれば、ツツドリは北海道でウグイスだけでなく、本州どうようセンダイムシクイにも托卵している。しかし、その巣には白っぽい卵ではなく、赤い卵を産んでいる。ムシクイ類は色に無頓着なようで、その性質を利用して宿主を拡げることに成功しているようだ。この関連のことは、先の『赤い卵の謎』の続編ともいえる『赤い卵のひみつ』(小峰書店、2011年)にまとめられている。また近く、Ornithological Scienceにも原著論文が掲載されることになりそうだ。

托卵をめぐる研究は、この赤い卵の謎に端を発して、托卵習性の進化一般にかかわることがらにも発展した。托卵習性の個々の要素にどのような意味があり、宿主との関係の中でどのように発達、進化してきたのかについて、総説論文をいくつか書いた。そのうちの一つは、Rothstein, S. I. & Robinson, S. K.(1998)編の "Parasitic Birds and Their Host -Studies in Coevolution-"(Oxford University Press)の一つの章としても収録された。

アメリカ留学

かねてより海外留学を望んでいたので、1986年から2年間、米国ミシガン大学(University of Michigan, Ann Arbor)の動物学博物館(Museum of Zoology)に客員研究員として留学した。受け入れてくれたのは、托卵研究で著名なR. B. Payne教授だった。Payne教授のもとでは、コウウチョウの托卵行動についての研究を行なった。また、日本でも実施していたやササゴイの投げ餌漁についての研究も発展させた。

コウウチョウの托卵研究では、宿主選択、卵の色や模様、ひなの行動などについて調べた。調査は大学構内や近隣のbiological stationなどで行なった。対象となる鳥の密度が高く、巣探しも容易であったため、多数の托卵例を観察することができた。また、コウウチョウが属するムクドリモドキ類では宿主卵に穴をあけて孵化させなくすることが知られていたが、都合よく見えるこの方法が意外と限られた鳥でしか見られないため、その理由をさぐる野外実験も試みた。私自身が托卵鳥になりかわって卵に穴をあけ、そのなりゆきを追ったのである。結果、宿主となるホオジロ類などは、卵に穴をあけられると、その巣を捨ててしまう傾向があった。ただし、試みた2年間で結果が大きく異なっていたため、まだ論文にはしていない。

ササゴイの投げ餌漁については、合衆国南部のフロリダ州マイアミの湖沼で調べた。関連の論文がいくつか出ていたので、その場所に出向き、利用する餌の種類、投げてから魚を捕らえるまでの時間、捕獲の成功率、投げ餌漁の利用頻度などについて調べた。この地域のササゴイは、パンくずやポップコーンといった、人が魚に投げるものだけを使っていた。ただし、パンくずとポップコーンのどちらをどれだけ使うかは、場所により、個体によって異なっていた。その違いは、捕らえる魚の大きさや種類と関係していた。とくに小魚しかいない場所では、餌として大きいポップコーンでは食いつきが悪いため、ササゴイはパンくずしか使っていなかった。

野外調査に出かけないおりには、学内各所で行なわれるセミナーや講義に積極的に出て、最新の知識や情報を得た。この当時は、行動生態学が盛んで、国内外のいろいろな地域から頻繁に関連の研究者が訪れ、各所で活発な議論が行なわれていた。とくに大学院生や若い研究者との会話や議論は、とても刺激的だった。
この2年間は、自分自身の研究や幅広い分野の勉強にたくさんの時間を費やすことができ、たいへん有意義な日々をすごすことができた。また、近隣や遠隔地の自然地域に出かけ、鳥や自然の観察に多くの時間を費やすこともできた。

渡り鳥の衛星追跡

1988年4月、帰国してから(財)日本野鳥の会の研究センター所長に迎えられた。ここでの6年間は、希少種の保全にかかわる研究に従事した。とくに、人工衛星を利用したツル類などの渡り追跡研究に深くかかわり、ロシア、中国、北朝鮮、米国などの研究者といくつかの共同研究を行なった。この衛星追跡研究は、その後、今日に至るまで主要な研究テーマとして継続している。以下に、研究の歴史を振り返り、現在までの研究の成果とその保全への利用について少しくわしく述べておきたい。
1990年4月初め、新たに開発された鳥用小型衛星用送信機を北海道の北端にあるクッチャロ湖でコハクチョウに装着することになった。日本で初めての試みだった。装着後、4月の中下旬になって、ハクチョウたちは北に旅立った。送信機を装着した4羽のうち、1羽が5月17日にロシア北方、北極圏のツンドラ地帯の繁殖域に到達した。この成功によって、その後の衛星追跡研究は大きく進展することになった。

翌1991年、日本野鳥の会が中心になって実施する衛星追跡は、大型の研究・活動費を得て新しい国際共同研究プロジェクトとして出発した。対象はツル類。地球規模で絶滅が危ぶまれるツル類を象徴として、湿地の鳥と自然の保全をめざすプロジェクトとして位置づけられた。私はこのプロジェクトの推進役、とりまとめ役をつとめた。このプロジェクトは、第一期で3年続き、大きな成果を収めた。この間に追跡したツル類は、マナヅル、ナベヅル、タンチョウ、ソデグロヅル、クロヅルなどである。追跡個体数は合計62羽、得られた測定位置の数は14,204だった。共同研究することになった国内外の研究団体は25、共同研究者の数は60人以上におよんだ。国外の主な共同研究団体は、ロシアの自然保護区中央研究所、ダウルスキー自然保護区、ヒンガンスキー自然保護区、ハンカ湖自然保護区、中国の黒竜江省自然資源研究所、モンゴルのバイガルカンバニー、北朝鮮の自然保護研究センター、米国の国際ツル財団、インドのケオラディオ国立公園などである。

1994年、私は東京大学に新設された野生動物学研究室(のちの生物多様性科学研究室)に移った。新しい研究室は、大学院での研究と教育に焦点をあて、野生動物や自然環境の保全をめざしていた。私はここでも、渡り鳥の衛星追跡を自分自身の研究テーマの一つに選んだ。それまでに行なってきた研究の成果が、まだ十分にまとまっていなかったからである。また、新たに試みたい鳥の種や地域もあったからである。幸いにして、研究費も環境省から得ることができた。国立環境研究所情報解析研究室の田村正行さん(のちに京都大学教授)たちとの共同研究が始まった。目的はやはり、希少鳥類とその生息環境の保全をめざしたものだった。対象となったのは、ツル類、コウノトリ類、ガン類、タカ類などである。

この共同研究で私は、衛星追跡の結果を衛星の画像解析やコンピュータのシミュレーションと組みあわせる方向に発展させた。田村さんたちは画像解析やシミュレーションの専門家であったので、研究は予想通りあるいは予想以上の成果を生み出した。この一連の研究は6年続き、その間に主に極東ロシアの研究者と活発に共同研究を行なった。これらの研究を通じて私は、鳥をはじめとした野生動物の生態や保全研究に、先端科学技術を導入することの重要性をますます実感した。

ハチクマの渡り追跡

その後も衛星追跡研究は継続され、今日に至っている。研究が開始されてから、20年ほどが経過している。これまでにさまざまな渡りの経路が明らかになっているが、一連の研究の中でもっとも刺激的だったのは、ハチクマの渡り追跡である。以下に、渡りの概要を紹介しよう。

ハチクマは秋、繁殖地である本州の中~北部を西に進み、九州の西の端、五島列島の福江島あたりから東シナ海700kmを超え、中国東岸の揚子江の河口付近に移動する。その後、中国の内陸部に少し入ったのち南下し、ベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーなどからマレー半島を経由し、インドネシアやフィリピン方面まで渡る。Cの字を描く、きわめて大きな迂回経路である。これらの越冬地に到達するのが目的なら、南西諸島経由で南下する方が時間もエネルギーもはるかに節約できる。だが、そうはしないのである。

春には、マレー半島北部までは秋の経路を逆戻りし、その後、秋の経路より大陸内部に入り、中国の渤海沿岸を北上して朝鮮半島北部まで移動する。そこで90度方向転換し、なんと朝鮮半島を南下して九州に入ったのち、東に進んで本州の中~北部の繁殖地に戻る。これまた、90度の方向転換を何度も行なう、きわめて大きな迂回経路である。やはり、南西諸島を北上する方が時間もエネルギーもはるかに節約できるのに、そうはしない。また、秋のように東シナ海を越えればよいのに、そうもしない。理由はある程度はっきりしているが、長くなるのでここではふれないでおくことにする。関心のある方は、以下の論文を参照されたい。
Yamaguchi, N., Arisawa, Y., Shimada, Y. and Higuchi, H. 2011. Real-time weather analysis reveals the adaptability of direct sea-crossing by raptors. Journal of Ethology doi: 10.1007/s10164-011-0301-1.

いずれにせよ、おどろくべきことにハチクマは、この春秋の渡りを通じて東アジアのすべての国をめぐっている。春と秋の渡りの延長距離は、それぞれ10、000kmほど、両方で2万キロ以上になる。毎年、それだけの長い距離を移動しながら、日本と他国の遠隔地をつないでいるのである。しかも、戻る先は、繁殖地も越冬地も、個体ごとに厳密に決まっている。人間世界の言葉を使って言えば、何丁目何番地何号まで決まっているのだ。

私は気分がすぐれないとき、ハチクマのこの渡り経路をながめる。こんなすごい渡りをしている鳥を研究できていることに、無条件に喜びを感じる。元気をとり戻すことができるのだ。

保全に向けての研究成果の利用

衛星追跡によって得られた成果は、具体的な保全活動に結びついている。主なものをいくつかあげると、北朝鮮では板門店、鉄原、文徳、金野の4地域がツルの渡りの重要な中継地となっていることを示した論文にもとづき、1995年12月、文徳の約3,000ha、金野の2,000haがツルの中継地保全を目的にした国の保護区に指定された。衛星追跡によって九州出水との行き来が明らかになったロシア中南部の繁殖地、ムラビヨフカには、1993年6月に5,200haの自然公園が設立された。この設立に衛星追跡の結果がとくに大きな役割を果たしたわけではないが、日本とロシアの関係者の交流を促進することになった。朝鮮半島やロシアに数千haもの保全地域をいくつも設置することに貢献した衛星追跡の威力は、たいへんなものである。

一方、出水で越冬するマナヅルの繁殖地などとして重要であることがわかった中国黒龍江省の三江平原では、ツルの衛星追跡や空中調査と衛星画像を重ね合わせた結果にもとづき、当初の開発計画に対して大幅な変更を提言した。その内容は、開発範囲の縮小と変更から、新たな保護区の設置、開発後の監視体制の確立にまでわたった。提案内容の一部、たとえば保護区の設置などは、のちに実施に移されることになった。衛星追跡の結果は、渡り中継地や繁殖地、越冬地をつなぐ、保全に向けてのネットワークづくりにも貢献している。現在、関係国の自然保護団体、研究者、行政担当者などが協力して、保全に向けての行動指針や行動計画の作成に努力している。

私たちのこれまでの衛星追跡研究の詳細は、以下の2つの文献にまとめられている。関心のある方は参照されたい。 
樋口広芳. 2005.『鳥たちの旅?渡り鳥の衛星追跡?』. NHK出版, 東京
(2010年に中国語版、韓国語版がそれぞれ復旦大学出版、BioScience社から出版。英語版やインドネシア語版も準備中)。
Higuchi, H. 2011. Bird migration and the conservation of the global environment.
Journal of Ornithology doi 10.1007/s10336-011-0768-0

今後に向けて

研究生活を続けて40年あまり。これまで述べてきたこと以外にも、カラスと人間生活との軋轢の解明、学生との共同研究になるメグロ、マガン、サシバ、コアジサシ、アホウドリなどの保全関連研究など、さまざまなことがらに取り組んできた。とくにカラスについては、車を利用したクルミ割り、線路への置き石、屋外の洗面所からの石鹸盗み、ろうそくの持ち去りと野火の発生などの行動研究を行ない、社会的にも大きな注目を受けた。

いろいろな苦難もあったが、自分の好きな道を歩み、たくさんの成果をあげることのできた私のこれまでの研究人生は、誠に幸せなものだったといえる。よい研究の場や機会に恵まれ、よい仲間や学生に恵まれた結果である。お世話になった方々、一緒に研究を進めてくださった人たちには、深く、深く感謝している。

やり残していること、あらたに取り組みたいことは、まだまだいっぱいある。今後も、場を変えて、しばらくは研究を続けていく予定である。これまでに得た知識や経験、国内外の人とのつながりをたいせつにしながら、私らしい研究をさらに展開していきたいと思っている。      (2012年1月20日記)


受付日2012.1.20
topに戻る

46年間にわたる鳥の研究を振り返って

中村浩志
信州大学教育学部

私が鳥に関心を持ち、鳥の研究を始めたのは信州大学教育学部に入学した年からである。入学早々の5月に参加した戸隠探鳥会で、戸隠の自然とそこに棲息する鳥に感動したことがきっかけであった。以来、現在まで46年間にわり様々な鳥の生態研究を行ってきた。この3月に大学を退職するにあたり、これまでの鳥の研究を振り返ってみることにしたい。

戸隠探鳥会を主催する生態研究室に所属した私は、2年生の時から卒論研究としてカワラヒワを研究することになった。当時、研究室では、故羽田健三先生のもとに学生の多くは一人一人が1種ごとの繁殖生態を研究していた。1年で繁殖生態の調査を終えた私は、その年の冬から多数のカワラヒワを捕獲し、色足環で個体識別した調査をはじめた。故浦本昌紀氏の「鳥類の生活」を読み、個体識別をした研究で見えてくる鳥の生態の面白さを知ったことがきっかけであった。標識した個体の追跡調査から、冬の群れが春につがいごとに繁殖地に分散し、繁殖を終えた後には集合し群れで冬を過ごした後、翌年の春にはまた繁殖地に分散することを繰り返し、季節と共に群れの構成や生活場所等がダイナミックに変化することを明らかにできた。

3年間のカワラヒワの調査から鳥の研究の面白さを知った私は、この鳥の研究を続けたいと思うようになり、京都大学の大学院に進学し、さらに5年間京都で調査することになった。この間には、北海道から沖縄まで各地に調査に出かけ、捕獲・標識したカワラヒワの数は1,600羽ほどになった。カワラヒワ以外の鳥に全く関心を示さなかった当時の私に、中村はカワラヒワしか知らないとよく言われたが、次々に新しい疑問と課題に直面し、他の鳥を研究する余裕などなかった。今考えると、生態だけでなく、形態、地理的変異、さらには渡りの問題に至るまで、この鳥を徹底して調査したことが非常に良かったと考えている。カワラヒワの研究を通し鳥の本質が理解でき、以後様々な鳥の生態を効率良く研究することに生かされたからである。

カワラヒワで学位論文をまとめ終わった後、信州大学教育学部の生態研究室に助手として戻ることになった。ちょうど今から30年前のことである。長野に戻り、すぐに始めた研究がカッコウの托卵研究である。京都でIan Wyllie 著「The Cuckoo」を読み、托卵の面白さを知ると共に、肝心なことはまだ何も解明されていないことに気付き、カワラヒワの次の研究テーマと決めていたからである。カッコウの研究が成功したのは、効率的な捕獲方法を確立し、調査地の千曲川に棲息するほとんどの個体を捕獲し、個体識別による調査ができたからである。多くの研究者が取り組んできたが、捕獲が難しい鳥のため解明できなかったさまざまな問題を、個体識別し、発信器をつけ、ビデオカメラ等の光学機器を駆使した研究で次々に解明し、Science やNature 誌にも論文を発表することができた。この研究は、カッコウと托卵される宿主との攻防戦を通し卵模様等が進化する仕組みに関する研究として30年近く続けており、私のライフワークの研究となった。

カッコウの研究と並行し、研究室の学生と一緒にこの30年間に実に多くの鳥を研究してきた。カケス、ブッポウソウ、アカショウビン、オオジシギ等の他、フクロウ、コノハズク、アオバズク等のフクロウ類やオオタカ、ノスリ、ハチクマ等の里山の猛禽類である。羽田先生の時代に身近な鳥の調査はほぼ終わり、私の代では生息数の少ない貴重種や夜行性の鳥、警戒心の強い猛禽類など、調査が難しい鳥ばかりを研究してきたように思う。これらの研究を振り返ると、私なりの研究スタイルがあった。それは調査する鳥を捕獲し、標識により個体識別し、野外での観察では見えない部分を様々な光学機器を使って、行動や生態が見えるようにして調査して来たことである。この研究スタイルは、20代の時にカワラヒワの研究で確立されたものである。生態の解明に挑戦したが、遂に何も解明できなかった鳥が1種類だけある。軽井沢で行ったトラツグミの研究である。2夏かけたが遂に1羽も捕獲できず、敗退した。私の研究は、捕獲が前提であることを思い知らされた。

50歳を過ぎて本格的に始めた研究にライチョウの研究がある。この鳥の研究は、羽田先生のライフワークであり、私が学生の時、また助手の時に調査を手伝った。羽田先生が亡くなった後、研究室としてこの鳥の調査を再開することにした。その理由は、人を恐れないのは日本のライチョウのみであること、その背景には日本文化が深くかかわっていることの重要性に気付いたからである。もう一つの理由は、日本のライチョウは、簡単に捕獲でき、警戒されずに近くからじっくり観察できるからである。狩猟鳥となっているため警戒心が強く、捕獲が難しい外国でのライチョウ研究に比べ、断然有利と判断したからである。

世界のライチョウ類研究者が集まって開く国際ライチョウシンポジウム(IGS)が3年ごとに開催されている。日本でのライチョウ研究が注目され、このシンポジウムが日本で開催されることになったが、昨年の震災と福島原発で1年延期となり、今年の7月松本で開催される。研究室でライチョウの研究を再開し、ちょうど10年目での国際会議である。カッコウの托卵研究でもちょうど10年目に、京都で開催された国際行動学会の後に軽井沢で托卵鳥の国際会議を開催している。研究を始めて世界的に評価され、国際会議開催までに持ってゆくには10年かかるというのが実感である。逆に言えば、10年はかけないと世界的な研究はできないということである。

日本鳥学会は今年創立100周年を迎え、今年の東京大会で祝賀と記念シンポジウムが行われる。また、2年後の2014年には日本で国際鳥学会(IOC)が開催される。この大きな節目と国際会議を通し、日本の若い研究者が多く育ち、学会の国際化が一層進むことを心から願っている。

fig1
乗鞍高原にて。

 


受付日2012.1.30【topに戻る

英文誌 Ornithological ScienceのWeb of Science への収録について

高須夫悟
奈良女子大学理学部

英文誌 Ornithological Science が、2010年1号(Vol. 9, No. 1)から、トムソン・ロイターが提供する引用文献データベース Web of Science に収録されることになりました。昨年9月の日本鳥学会2011年度大会(大阪市立大学)の総会の場で、英文誌編集委員長がにこにこされながら大会参加者にお伝えした非常に嬉しい知らせです。これに対し、総会の場から、今回の Web of Science 収録の意味について一般会員向けに分かりやすく紹介してほしいという要望がありました。これを受けて、この場をお借りして Ornithological Science(以後OS)の Web of Science への収録の意義について説明したいと思います。

本題に入る前に、研究者が学術論文を書く動機について考えてみたいと思います。経験者であれば誰もが同意していただけると思いますが、論文を一本仕上げることには大変な作業がともないます。時には苦痛とも思える作業が往々にして必要になります。こうした苦行にもかかわらず、われわれはなぜ論文を書くのでしょうか?

私は、論文執筆には大きく分けて二つの動機があると思います。一つの動機は、知的好奇心充足の手段としての研究成果の取りまとめというある意味内向きの欲求に基づくもの、もう一つは、研究成果をより多くの研究者に知ってもらってこれを役立ててほしいという外向きの欲求です。前者は、自分の研究成果が誰に読まれてどのように役に立つかは二の次だ!という理学の本質に基づく動機であるのに対して、後者は、より多くの研究者や世間に注目される研究成果を出せば研究費が取れるかも?と言う世俗的な動機であると言えるかもしれません。しかし、いずれの動機に基づくにせよ、論文を仕上げて初めて一つの研究に一区切りが付くことになります。

こうして苦労して執筆した論文は、世俗に生きる身としては、やはり、多くの読者の目に触れる学術雑誌で発表したいと考えるのが自然な感情だと思います。多くの読者の目に触れる雑誌と言えば、例えば Nature のようにとても有名で自然科学全般を網羅して社会的にも影響力を持つ雑誌があります。一方で、より専門的な研究領域に特化し、その分野で有名な雑誌が数多くあります。OSは鳥学を網羅する国際誌ですが、より国際的な雑誌へと発展させることが日本鳥学会の目指す活動の一つでもあります。

学術雑誌の知名度を測る指標の一つに、インパクト・ファクター Impact Factor (IF) があります。知名度の定義は難しいのですが、ある雑誌で発表された論文が数多く引用されるほど、その雑誌の知名度、言い換えると、研究活動に対する影響度、は高いと考えられます。論文を引用することは、その論文が何らかの形で引用元の論文に影響を与えたと考えられるからです。一言で言えばIFは、雑誌がどの程度他の論文に影響を与えたかを図る指標なのです。IFが高い雑誌ほどより多く引用される、つまり、より多くの読者に読まれ、より多くの論文に影響を与えた事になります。従って、苦労して仕上げた論文はIFが高い雑誌に投稿したいとだれもが考えます。IFは、ある一定の年数内に雑誌に掲載された論文数とそれらの論文が引用された回数に基づき機械的に計算されます(詳細については、例えば Wikipedia を参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/インパクトファクター)。

一昔、といっても十数年前までは、ほとんどすべての雑誌は紙媒体で印刷発表されていました。こうした時代に論文の被引用数を計算するのは大変な手間がともないました。しかし現在ではOSを含む相当数の雑誌が電子化され、論文の投稿、査読、原稿修正といった一連の作業がオンラインで処理され、受理された論文は電子媒体PDFの形でウェブ上で公開されるようになっています。被引用数の計算も簡単になりました。それでは、誰が論文数や被引用数を数えるのでしょうか?学術活動に関するこうした情報を集めて加工し、研究者向けにデータベースを提供する会社にトムソン・ロイターがあります。

Web of Science はトムソン・ロイターが提供する自然科学・社会科学の幅広い分野の学術雑誌を網羅する巨大な引用文献データベースです。学術雑誌のIFはもちろんのこと、論文検索(著者名、論文キーワードなど)を初めとして、ある論文が他の論文にどのように引用されているかといった研究者が知りたい情報が山盛りです。この度、OSが Web of Science に収録されると言うことは、こうした巨大なデータベースにOSの論文情報が登録されると言うことで、OSはより多くの研究者の目に付くようになります。これが Web of Science への収録のもっとも大きなメリットです。私が博士課程の学生だった90年代初頭は、インターネットはまだ無く、こうした便利なデータベースはありませんでした。当時は、関連する論文を文献リストに目を通して片っ端からコピーして集める作業に相当な時間を費やしたものです。図書館に収蔵が無い雑誌の場合、他大学へ郵便で文献複写を頼んでいたのんびりした時代でした。しかし今ではインターネット上で引用された論文やキーワードを含む論文を一瞬で検索し、直ちにPDFを入手することが可能になっています。論文執筆を始めるに当たって必要となる下準備に掛かる時間は相当短縮されたのです。

OSは、鳥学を対象とする国際誌としては歴史はまだ浅く、他の鳥学関連の国際誌と比べると国際的な認知度はまだ高くはありません。しかし、このOSをより国際的な雑誌として発展させることは日本鳥学会の願いでもあります。OSが Web of Science に収録されることにより、早ければ2012年度中にOSのIFが確定し、公表されます。IFを持つと言うことは、既にIFを持っている他の国際誌と同等に取り扱われると言うことでもあり、今後OSの国際的な認知度が高まって行くことが期待できます。一方で、IFが公開されることにより、OSはIFを持つ他の鳥学関連の国際誌との競争(つまり、質の高い論文の取り合い)にさらされることになります。

IFは、その雑誌に載った「平均的な論文」の被引用回数と言う意味で、雑誌のランキングに相当します。しかし、IFのみが一人歩きして、時には適切でない用いられ方をする場合があるのも事実です。分かりやすいたとえで言うと、この原稿を執筆している1月下旬はまさに大学受験シーズン真っ盛りなのですが、大学センター試験という共通の物差しによって、全国の大学は偏差値という一つの指標でランク付けされるようになっています。偏差値によるランキングの是非はさておき、ここでは雑誌のIFは大学の偏差値に相当すると考えてもらって良いと思います。しかし、偏差値の高い大学に入学できたからと言って、個々の学生個人の資質(この場合学力)が高いかどうかは全く別問題です。偏差値が高い大学の学生は「平均」として資質が高いかもしれませんが、これはあくまで「平均」でしか無いわけです。従って、高いIFを持つ雑誌に採択された論文だからと言って、かならずしもその論文の質が高い(つまり、他の研究者により多く引用される)とは言えません。ただし、一般にIFが高い雑誌ほど査読が厳しくて採択されにくいという事実があり、これが高IFの雑誌に掲載された論文は質が高いと見なされる理由になっています。しかしあくまでIFは「雑誌」の影響度を測る尺度であり、個々の「論文」の質を評価する指標ではありません。

こうしたIF偏重の風潮に対し、近年では論文の質を評価する指標として、論文の被引用数が重要視されるようになりつつあります。論文の被引用数は Web of Science などの引用文献データベースに収録された雑誌であれば簡単に検索できます。従って、多くの研究者は Web of Science に収録されている雑誌に論文を投稿する傾向があります。

Web of Science への収録によりOSにIFが付くことが決まりました。そしてOSに採録された論文の被引用数も公開されるようになります。OSで発表された論文が巨大なデータベースに収録されるようになることにより、1)OSの国際的な知名度が上がり、2)OSで発表された論文がより多くの研究者の目に触れる機会が増え、3)OSへの投稿数が増える、(以下1)、2)、3)の無限ループ)、という正のフィードバックが働き、OSが国際誌としてますます発展することが期待されます。投稿数の増加によってOSでの論文採択はより厳しくなるかもしれません。しかし、同時にOSに掲載される論文の質は高まって行くことでしょう。

以上、OSの Web of Science への収録が持つ意義についてまとめてみました。OSがさらに国際誌として発展することを鳥学会の一会員として期待したいと思います。また、自分の論文がより多くの研究者の目に触れるようになったOSへ皆さんから積極的な論文投稿があることを期待したいと思います。

Web of Science は購読料が高く、規模の大きな大学・研究機関からでないと利用できないかもしれません。便利なサービスには対価がともなう、という現代社会においては当たり前のことなのかもしれませんが、小規模大学に所属する私にとっては厳しい現実です。研究の質は研究組織の規模によらない、そしてプロフェッショナルとアマチュアを問わない、ことを実証したいものです(実証しようではありませんか!)。


受付日2012.1.30【topに戻る


鳥学会におけるポスドク問題の現状

三上修
岩手医科大学

近年、学位(博士)を取得した若い研究者が、研究を安定して続けられる職(任期の決まっていない職)に就けないことが社会問題となっています。いわゆる、ポスドク問題、ポストポスドク問題です。なぜこんな問題が生じたかは、ご存知の方も多いと思いますので、説明は簡単にしますが、日本の科学分野の世界における競争力を高めるために、学位取得者を増やす政策が1996年ごろから始まりました。実際、科学業績は増えたのですが、一方で、少子化により、研究職そのものは減少傾向にあるので、学位を取得したにも関わらず就職できない若手研究者が増えたのです。

彼らはどうしているかというと、1年から数年単位の契約研究者(ポスドク)として、大学や研究所を転々として、機会を見計らっては、任期の無い職に応募します。その倍率は高く、数十倍から100倍超です。当然ながら、職につけるまで生活は安定しません。ポスドクの収入は高くなく、社会保障も不十分だからです。収入があるのはまだ良い方で、職安に通うという状況も生じえます(参考)。

学位取得後の就職の厳しさは、今にはじまったわけではありません。過去にもオーバードクター問題がありました。しかし、現在のポスドク問題は、これまでよりも、根が深く、かつ深刻であるといわれています。2011年4月のNatureには、日本のポスドク問題について「A system in crisis」という表現が見られます。わたしも長いあいだポスドクを経験してきました。ポスドクの辛さは、「30台なかばになったというのに、将来が見えないこと」、これに尽きます。数年ごとに、来年、自分が無収入になるのではないかという恐怖がやってくるのです。

こういった問題は鳥学会でも起きているかもしれません。しかも、それは鳥学会の将来に影を落としかねない問題です。というのも、学会の盛り上がりは、「若手研究者が、よい研究をして職につき、そして新たな若手研究者を育てる」という、サイクルがうまく回るかどうかにかかっているのですが、若手研究者が職につけなければ、このサイクルがまわらないからです。とくに、2011年度の鳥学会の総会で江崎会長も懸念されていらっしゃいましたが、偉大な先輩研究者たちが、ここ数年のあいだに立て続けに退官される時期を迎えています。その空いたポストに、鳥類研究者が入れれば良いのですが、その見込みは大きくありません。なぜなら公募は、より広い分野に向けて行われることが一般的ですし、前述したように、少子化を迎えた現在、経費削減のために、空いたポストはそのまま無くすという大学も少なくないからです。鳥の研究者が大学のポストにつかなければ、若手を育てる基盤すらなくなってしまいます。

では、実際に鳥学会の若手研究者にもポスドク問題は起きているのでしょうか? そこで、実態把握を目的として、若手研究者にアンケートをとってみました。私は企画委員会のメンバーですので、当初は企画委員会からの正式なアンケートを採る計画も立てましたが、そのためには、さまざまな手続きが必要になります。今回は、学会後の学会に対する意識が高まっているときに素早くアンケートを採りたかったので、私が個人的にアンケートを取るという手法を用いました。得られた結果は、予備的と思っていただいても構いませんが、実態は十分に把握できたと思っております。

実施したアンケート項目は以下のとおりです。
1.年齢
2.性別
3.学位を取った年(西暦)と月
4.現在の主たる所属先(職場)
5.現在の職の勤務形態
6.現在の職の任期
7.自らが第一著者の英文論文数と和文論文数
8.自らが第一著者ではない英文論文数と和文論文数
9.就職する際に重要視する項目は何か?
10.鳥学会のさまざまな委員会の活動に参加したいか
11.若手研究者のために鳥学会に期待したいこと

実際にもちいたアンケート票はこちらにあります。このアンケートの意図は、1から6については、若手研究者の現状の把握、7~8は、就職するのにどれくらいの業績が必要かの目安を測るため、9については、若手研究者が就職に対してどのような意識をもっているか、そして、10については、若手研究者がどれくらい学会に参加する意思をもっているかを聞くためのものです(就職の際に、学会活動をしていることが有利に働くこともあるので、もし本当に若手が就職難であれば、委員会活動に積極的にリクルートすることも重要ではないかと考えたためです)。そして11は、鳥学会でどんなことができそうかを考えるためのものです。

このアンケートを2011年10月3日から10月11日に実施しました。対象は、「鳥学会員」かつ「博士を取得済み」かつ「おおよそ40歳以下」としました。私が直接、または知人を経由して40名の方に送り、26名から解答がありました。

アンケートの結果をこちらにまとめました(個人が特定されないように、あいまいなまとめ方をしてあります)。なお、11番目の項目への回答は、回答にあった文章をそのまま載せてあります。不適切な表現もあるかもしれませんから若手の生の声(悲鳴)だと受け取って頂ければ幸いです。

主要な結果をまとめると、次のようになります。
・解答のあった26名中、任期の無い職につけているものはわずか9名でした。
・残り17名は、任期付きの職に就いており、年齢の中央値は、33から34歳ほどでした。
・しかも、このうち12名は、2年以内に任期が切れる予定です。
・任期のない研究職につけているものの業績は、第一著者の英文論文数の中央値が9本、同じく和文は7本と、職に就いた時点の業績ではないとはいえ、任期のない職につくのは容易ではないことを示していました。

これが鳥学会の若手研究者の現状です。30台なかばの17名もの若手研究者が、安定した職につけていないのです。この現状に対して「若手の努力が足りない」というのも一理あると思います。しかし、現状で17名のものが就ける職があるのでしょうか。そう考えると、おそらくこれは前述したように構造的な問題もあるのだと思います。実際、公募に勝ち残るためのハードルは高くなっているようです。また昔に比べて研究がしづらくなっていることも関係しているかもしれません。近年、大学教員が、研究に使える時間が減少傾向にあると言われています(参考)。そのしわ寄せが、院生やポスドクに降りかかっているのかもしれません。ポスドクというポジションは、研究に集中できそうですが、場合によってはそうでもありません。私も経験がありますが、ポスドクは、一か所に留まるわけではありませんから、研究の効率が悪くなります。その割には雑務があり、自分の次のポストを探すために、絶えず公募書類を書いていかねばなりません。研究職につくための前ステップのポスドクであるにも関わらず、実はおちついて研究がしにくい場合も多々あるのです。

こういった現状に対して、学会として何かできないか検討すべき時に来ているのではないでしょうか? とはいえ、実際にできることはそれほど多くはないかもしれません。ほかの学会の動きをみると、ある学会では、若手研究者や、女性研究者が応募しやすい賞を作っているところがあります(参考:他学会の賞について)。受賞歴は公募の際に有利に働く可能性があるからです。別の学会では、積極的に、若手研究者に本を執筆させているところがあります。書籍は、公募においても評価されますし、執筆そのものが良い経験になります。さらに、研究の面白さを世間に伝えることができます。ただし、現在、出版物はなかなか売れませんので、学会で買い上げて会員に販売するなどの仕組みを採っているところもあるようです。鳥学会として何ができるかはわかりませんが、それが本当に必要かどうかも含めて、議論を始めてみてはどうでしょうか?

最後になりますが、江崎会鳥が就任された際に、「鳥学のチームジャパンとして事に当たる」という趣旨のことをおっしゃられたことを記憶しています。鳥学会が100周年を迎えようとしており、さらにIOC2014の開催にかけて動いているこの重要な時期に、会長が、まずは鳥学会が一つになることを一番にお考えになっていらっしゃることをお聴きし、非常に頼もしく感じたことを覚えています。過去100年、偉大な先輩方の努力で、鳥学会は大きな発展を迎えてきました。次の100年も、日本の鳥学から良い研究成果が世界にむけて発表され、学会全体が盛り上がっていく、そういう将来像が見える学会であって欲しいと思います。


受付日2011.12.7【topに戻る



編集後記:今号はまず最初に、日本鳥学会会長を務められた樋口先生と中村先生に、これまでの研究生活を振り返って、という題で寄稿していただきました。今後も研究活動を継続され、鳥学会を盛り上げていただけることを期待します。次に、英文誌 Ornithological Science の Web of Science 収録についての意義をまとめた記事を掲載しました。最後に、日本の学術界全般に関わる問題でもあるポストドク問題についての寄稿を掲載しました。鳥学通信では随時記事を受け付けております。お気軽に記事をお寄せください。皆さんのご協力を期待しています(編集長)。

 鳥学通信は、皆様からの原稿投稿・企画をお待ちしております。鳥学会への意見、調査のおもしろグッズ、研究アイデア等、読みたい連載ネタ、なんでもよろしいですので会員のみなさまの原稿・意見をお待ちしています。原稿・意見の投稿は、編集担当者宛 (ornith_letterslagopus.com) までメールでお願いします。
 鳥学通信は、2月,5月,8月,11月の1日に定期号を発行予定です。臨時号は、原稿が集まり次第、随時、発行します。


鳥学通信 No.34 (2012年2月8日)
編集・電子出版:日本鳥学会広報委員会
和田 岳(編集長)、高須夫悟(副編集長)
天野達也、東條一史、時田賢一、百瀬浩
Copyright (C) 2005-12 Ornithological Society of Japan

学会トップページに戻る