鳥学通信 no. 43 (2014. 7.26発行)

心技体の一致で成功したコクガンの捕獲、そして始まった衛星追跡

嶋田哲郎
(公財) 宮城県伊豆沼・内沼環境保全財団

研究の背景

2011年3月11日に東日本大震災が起きました。伊豆沼・内沼では最大震度7を記録し、サンクチュアリセンターのガラスが割れ、堤防がくずれるなどの被害が生じました。しかし、沿岸被災地における被害に較べれば、微々たるものでした。

震災後の混乱状態が落ち着いてきた頃、地元にいる鳥の研究者としてなにか震災復興に貢献できないかと考えました。テーマに選んだのがコクガンです。この鳥は国内にまとまった群れとして飛来するガン類のうち、越冬生態や渡り経路、中継地、繁殖地など不明な点が多く、未知の鳥でした。また、コクガンは海草、海藻類を採食します。魚類の生息場所ともなるこうした生息場所は津波で大きな被害を受けました。コクガンの環境利用と藻場の対応関係を明らかにすることで、漁場環境の回復過程をモニターすることができるのではないかと考えたのです。

この目的を達成するためにもっとも適切な方法が衛星追跡です。再捕獲の可能性がほとんど期待できないコクガンの、越冬地から繁殖地までの移動経路を知るためには、衛星追跡しかありません。また、越冬地においてもコクガンは海上生活をするため、テレメトリーなど電波の届く範囲が限られる方法では追跡が困難です。

2009年に当時東京大学の樋口広芳先生が米国USGSとの共同研究で、伊豆沼でオオハクチョウ、オナガガモを捕獲し、衛星追跡を行いました。このとき私は時田賢一さん、内田聖さんをはじめとする、樋口先生グループの捕獲の技術力の高さを目の当たりにしました。コクガンの捕獲にぜひとも樋口先生にご参画いただきたいと考えていました。さらに日本でガン類にもっとも造詣の深い呉地正行さんにもご協力をお願いしました。それは面白い、との呉地さんの言葉で気持ちに弾みがつきました。
お二人から調査協力へのご快諾をいただき、三井物産環境基金2011年度復興助成から助成金をいただくことができ、3年間の調査が始まったのです。案件名は「南三陸沿岸のコクガンは藻場再生のシンボル!震災後のコクガンの分布をモニターすることで漁場再生の手がかりを掴む」でした。

1回目の捕獲作業

2011/12年の最初の冬に、震災後のコクガンの分布や個体数を調査し、それを踏まえて2年目の捕獲に向けた検討を行いました。この調査で、震災前後で個体数は大きく変化していないものの、コクガンは採食場所を海上から漁港へと大きく変え、震災後の生息環境の変化に対応していることが明らかになりました(嶋田ほか(2013)鳥学会誌 62: 9-15)。

漁港の船揚場などで採食するコクガンは、とても近くで観察できます(写真1)。すぐにでも捕れそうです。私たちは調査結果をもとにコクガンがよくみられるいくつかの漁港を捕獲の候補地としました。

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写真1:漁港の船揚場でみられたコクガン

2012/13年、2年目の冬、いよいよコクガンの捕獲に挑戦です。捕獲候補地の漁港で網を設置しました。すぐに困難に直面しました。最初の困難は、網の設置です。岸壁はコンクリートなので、網を固定するためのペグなどがとても打ち込みにくいのです。次に波。コクガンは波打ち際で採食するため、できるだけ波打ち際で網を張りたいのですが、上げ潮時に潮が上がってくると波の力で網を簡単にもっていかれてしまうのです。また、潮汐に合わせて網を動かしたいのですが、コンクリートにペグを打ち込んであるので、容易に動かせません。さらに設置にどうしても時間がかかるため、設置している様子をコクガンに見られてしまい、警戒された結果、その漁港を拒否されるということもありました。

漁港での捕獲は失敗に終わりました。

2回目の捕獲作業

コクガンの分布調査をしているとき、砂浜に流れ込んでいる小河川の河口部でコクガンが飲水していることに気づきました(写真2)。インターバルカメラを設置してその動きを定量的に調べたところ、朝の8時頃をピークとして、日の出から9時ごろまで頻繁に飲水していることがわかりました(Shimada, T. et al. (2013) GOOSE BULLETIN 17: 6-9)。

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写真2:コクガンの飲水行動(写真:時田賢一)。波打ち際で飲水する

漁港を含めて海藻を食べることのできる場所はたくさんありますが、飲水できる真水のある場所は限られています。私たちは、漁港での捕獲を止め、この飲水場所での捕獲を試みることにしました。

ここでも悩ませられたのが波です。コクガンが利用する波打ち際が網の射程に入る時間は、ほんの数時間です。上げ潮時に少しでも気を抜くと、網は波にかぶってしまい、たちまち砂に埋もれてしまいます。寒さが厳しく、波をかぶった網が凍りつき、網を展開できないこともありました。網場の環境変動を捉え、それを捕獲作業に生かすことができず、2回目の捕獲作業も失敗に終わりました。

そして3度目の正直

2013/14年、3年目の冬、背水の陣で捕獲に再挑戦しました。研究助成も最終年度の終わり近くになっていました。私たちは昨年の知見、反省を考えうるだけ生かしました。網の改良、引き手はブラインドに待機、網をぬらさないように網受けを川に渡す、暗いうちに網を設置など、できるだけのことをしました。

1月19日から捕獲作業を開始しましたが、1日目、2日目は空振りに終わりました。1~2羽が網の射程に入ったこともあったのですが、衛星送信機は5台あり、最低5羽を捕まえたかった私たちは我慢しました。

3日目の朝、満潮時間と網を設置する時刻が重なったために日出前に網を張ることができず、網を張り終わったのは日が昇ってからでした。日出直後から飲水にくるコクガンが、案の定まったく来ません。コクガンはおそらくどこかで設置作業の様子をみていたのです。飲水場所は網場以外に近くにもう一カ所あります。コクガンは水を飲みたいので、網場を通過してその方向へ飛んでいきます。私たちはその場所の様子も観察していました。

午前中、結局コクガンは網場にあらわれませんでした。お昼近くになり、網場がみえるところで昼食をとることになりました。みんなで食べていると10羽のコクガンが飛んできました。水を飲みに網場に近づいてきます。これから上げ潮で波打ち際が射程に入ってくる、いいタイミングです。

コクガンは沖でアオサを食べたりしながら、網場近くの水面と砂浜を行きつ戻りつしながらうろうろしていましたが、そのうち、うまい具合に上陸してきました。どんどん射程に入ってきて、水を飲み始めます。

トランシーバーで、ブラインドにいる時田さんと車中の内田さんが話しています。時田さん「引いちゃいますよ!」、内田さん「引きましょう!」。1月21日14時13分に網を展開し、9羽の捕獲に成功しました(写真3)。

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写真3:コクガン捕獲チーム(左から時田、呉地、嶋田、樋口、内田、杉野目)

 

振り返って

心技体、という言葉があります。まず“心”。捕獲チーム全員が、なんとしても捕獲したいという強い気持ちをもっていました。1年目の2回の失敗にもかかわらず、その気持ちが衰えることはありませんでした。次に“技”。失敗の間に私たちは技術力を確実に向上させました。網の改良、網の設置と潮汐のタイミング、捕獲手順など網場にかかることからコクガンの行動まで、あらゆる情報を集めて技術力を高めました。特にコクガンが執着する飲水場所とそこでの行動を明らかにしたことが、重要なポイントだったと思います。コクガンは餌づけでは網場へ誘引できません。自然条件下で網場へ誘引せざるをえないため、コクガンが必ず訪れる場所を見つける必要があります。今回、飲水場所という彼らが必ず訪れる場所を見つけ、そこでの行動を定量的に把握できたことは大きな成果でした。
そして“体”。これはこの研究にかかるサポート体制です。三井物産には2回の失敗にもかかわらず、再度挑戦する機会をいただきました。伊豆沼財団のみなさんにはコクガン調査に快く送り出していただきました。宮林泰彦さん、鈴木康さんには分布調査にご協力いただき、多くの鳥仲間にはコクガンの情報をいただきました。行政関係者には捕獲にあたってさまざまな便宜を図っていただきました。こうしたサポートがなければ、捕獲作業を到底遂行できるものではありませんでした。心技体の一致した結果、コクガンの捕獲に成功したのです。そしてそのうちどれが欠けても捕獲できなかったでしょう。

現在、衛星追跡が行われ、捕獲地をふくむ地域の移動が明らかになってきています(写真4)。追跡地点を地理情報システム(GIS)上にのせた環境解析も進んでいます。4月には北上が始まるものと思われます。繁殖地に向けた追跡を楽しみにしています。

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写真4:衛星送信機を装着したコクガン

コクガン捕獲チーム(五十音順)
内田 聖、呉地正行、佐藤幸介、嶋田哲郎、杉野目 斉、時田賢一、樋口広芳、土方直哉

受付日 2014. 2. 25


ヴァルター・ティーデさんの思い出 鳥学に国境はない

須川恒

2014年6月26日夕方に加藤太一さん、エレナ・パブレンコさん、村瀬哲司さんと共に京都の御所へアオバズクの観察に行った。この三人のかたとの探鳥については、村瀬さんが京大広報に以下の一文を書いておられる。エレナさんはクリミアの天文学者で、6月末まで京大に滞在中だった。(京大広報 4207ページ。注:川村多美二は川村多実二)

御所のアオバズク観察後の夕食中に、故国に帰ってから探鳥を続けるためにどのようなテーマがあるかということが話題となった。

6月に宇治市でエレナさんが描いた絵や、1月に望遠機能付のカメラを入手して日本に来るまでの3ヶ月間に彼女の住むクリミアを中心に、越冬するゴシキヒワやズアオアトリなど多くの鳥や、ラムサール条約の条約湿地ともなっている腐海(スヴァシュ)という大湿地を訪問したスライドを見せてもらう会があった

エレナさんは、今回はウクライナのパスポートで日本に滞在していた。クリミアに戻ると、彼女はウクライナかロシアかの、まさに国籍の問題に直面することになる。でも、探鳥を続けるのに国籍は関係ない。

加藤太一さんとエレナさんは共に変光星の研究者であり、地球が回転して昼夜が変わっても、同じ星を日本と東欧で毎日観測できるネットワークを1990年代末から構築して共同研究を続けてきた仲だそうだ。毎年繁殖地と越冬地を移動する同じ渡り鳥を、南北の国々の鳥類学者が共に観測して研究するようなものだ。

夕食後、加藤さん、エレナさんと別れ、村瀬さんと地下鉄の駅で別れるまでの短い時間に、村瀬さんがかつて西ドイツとベルリンの壁崩壊後のドイツで働いていたと聞いたので、西ドイツの鳥類学者ヴァルター・ティーデさんについて話した。興味を持たれたので、帰ってから調べると、ティーデさんの履歴がドイツ語版のウィキペディアに掲載されていて2011年に亡くなっていることが判った。

日本でティーデさんのことを知っている人はそれなりにいるので、私の思い出も含め、どこかの場所に紹介しておきたく思い、村瀬さんに、ドイツ語の履歴の翻訳をお願いしたところ、7月1日に以下の訳(暫定訳)をお送りいただいた、

ヴァルター・ティーデの履歴(ウィキペディア(独語版)の暫定訳
(村瀬哲司訳2014年7月1日))

ヴァルター・ティーデ(Walther Thiede)
ヴァルター・ティーデ(1931年12月12日生れ―2011年6月6日ケルンにて没)はドイツの鳥類学者。

学歴と職歴

ティーデは、ハンブルクで薬剤師の家庭に育った。母親も薬剤師だった。ヴァルター・ティーデは薬学を勉強し、1960年薬剤師の資格を取得した。薬学の勉強の傍らで、アカアシシギとハジロコチドリの研究をした。薬剤師の資格取得後、動物学を研究し、64年ボンのギュンター・ニートハマーのもとで、生物学博士号を取得した。博士論文のテーマは「アカアシシギの分布」だった。64年から66年までハンブルクで薬剤師として、1966年からドイツの製薬会社の研究者として働いた。66年から日本を訪問するようになり、68年から73年まで日本に滞在した。ドイツに帰国後、ドイツの製薬業界の主要ポストを歴任した。

著者、訳者、発行人

ティーデには、鳥類学に関する大小数百の記事、4冊の著書、3冊の訳書がある。彼の著書「鳥類(Vögel)」は20版を重ねた。「水鳥と水辺の鳥(Wasservögel und Strandvögel)」は6版を重ね、2012年に第7版が計画されていた。この本は1980年“Water and shorebirds”の表題で英国で出版された。「猛禽とフクロウ(Greifvögel und Eulen)」は5版が出され、2012年第7版が計画された。この本は2007年プラハでチェコ語に翻訳、2009年ベルギーでオランダ語とフランス語に翻訳出版された。

1982年彼は、スチュワート・キースとジョン・グーダース著の「鳥ガイド(Vogelführer)」をBLV出版社から翻訳出版した。86年にデンマーク語で出版された本「猛禽(Greifvögel)」を翻訳した。この本は2005年第5版が出され、ドイツ語の鳥類学の標準的文献となった。2000年に翻訳された「動物の足跡(Tierspuren)」は、2009年第3版が出版された。彼が翻訳出版したこれら3冊の本の表紙には、訳者としてヴァルター・ティーデの名前が掲載されている。

1950年代から彼は、月刊誌「鳥類学通信(OM: Ornithologische Mitteilungen)の編集に従事した。出版人ヘルベルト・ブルンスが死んだ後、彼はその跡を継ぎ、2011年死の直前までOM9月号を完成させようとしていた。

ティーデはPCやインターネットを決して使わなかった。雑誌の編集にあたっては、1970年代のスタイルで鉛筆とタイプライターを使い続けた。

私生活

彼は日本から帰国後、ケルン(Köln-Lövenich)に住んだ。2010年のクリスマス以降は事故のため車椅子生活となり、2011年9月6日自宅で逝去。膨大な私蔵図書を含む遺産は、彼が設立したヴァルター・ティーデ基金に全て寄贈された。ここの鳥類図書は、民間が保有するドイツ最大規模のものである。

ティーデは、外国語の中でも日本語、デンマーク語、スウェーデン語を流暢に話した。彼は、スカンディナビア、東欧、東アジアの鳥類学者と緊密に連絡を保った。鉄のカーテンの向こう側の鳥類学者には、長年にわたり無償で文献を提供した。1990年ベルリンの壁崩壊後彼は、ザクセン鳥類学協会(VSO)とチューリンゲン鳥類学協会(VTO)の再興、新設に参加した。彼は、2002年VSOの、後にVTOの名誉会員になった。彼は、北ケルン墓地(Pallenbergstraße)で妻ウルリケと共に眠っている。

妻ウルリケ(Ulrike)は、動物学者であり日本学者だった。彼女は、自然科学と哲学を研究し、両分野で博士号を授与された。ドイツ国立図書館の目録によれば、5冊の単著と10冊の共著がある。ウルリケ・ティーデは、死ぬ時点までブレーメン経済大学で日本学の講師を勤め、2004年から2005年までケルン・アジェンダ財団の理事長を勤めた。
 
 村瀬さんに訳していただいたティーデさんの履歴は以上である。
 鳥類学業績、訳書、参考文献、ウェブリンクなどについては以下を直接参照されたい。http://de.wikipedia.org/wiki/Walther_Thiede

ティーデさんの思い出

村瀬さんに一部話した私の思い出を書く。

多分1972年頃だと思うが、長谷川博さんが神戸に住むティーデさんを訪問するのでついていった。長谷川さんにティーデさん訪問を勧めたのは、当時京大に研修員で在学していた、現在は北海道で活躍している小川巌さんだ(小川さんがティーデさんをどう知ったかは長谷川さんに聞いたので後述)。御影だったと思うが、駅についてから長谷川さんが電話をしてからお宅を訪問した。当時ティーデさんは外資系の薬品会社に勤めていた。薬学博士と、生物学の博士号の二つを持っていると聞いて驚いた。「アカアシシギの分布」に関する分厚い学位論文をみせてもらった。特に北欧のアカアシシギの分布情報が膨大にあった。

家には半端でない鳥類学の雑誌があり、二人が知りたいテーマについて聞くと、どんどんと机の上にめぼしい論文がある雑誌を積んで付箋をつけていった。
研究室でカワガラスの研究をしたいという人がいると聞くと、ドイツ語で書かれたカワガラスの論文がいくつもあることを示して、その人はドイツ語を勉強する必要があるねと言う。後日、全部のフォトコピーを送ってもらった。

驚いたのは、日本の鳥類学関係の雑誌のコレクションもすごいことだった。古書店を通して、どんどん揃えている。「野鳥」誌はもちろん、目ぼしい野鳥の会の支部報も定期購読していると聞いて驚いた。日本の鳥類の分布情報を集めようとすれば、このような雑誌にも目配りが必要とのことで、ドイツに帰ったら、日本の鳥に関する情報はティーデに聞けば判るというコレクションにするのだと言う。

当時、長谷川さんや私が興味を持っていた英国の鳥類学者デービット・ラックをどう思うかと聞いたところ、英国の鳥類学は事実の蓄積とアイデアのバランスが良いと評価する。いっぽう、米国の鳥類学のほうは、ともすれば事実の蓄積抜きの理論に走ると言う。

ティーデさんは、日本国内のいろいろな観察者とつながっていた。平凡社のアニマ誌でキタキツネなどの写真を発表していた北海道の竹田津実さんらと交流があり、共著論文もある。

北海道や対馬の鳥についてのティーデさんの論文
北海道オホーツク海沿岸の冬鳥〔英文〕
網走地方の9月の鳥相〔英文〕
Winter bird observations on Tsushima, Japan

夫人のウルリケ(Ulrike Thiede)さんは、ドイツのパウル・ライハウゼン氏の指導のもと、ネコ科の哺乳類について博士論文を書いたとのことで、国立科学博物館の今泉吉典氏と連絡してライハウゼン氏がイリオモテヤマネコに関心を持って来日した際に、案内をした。

イリオモテヤマネコ関係年表に、以下のように書いてある。
『1973年12月10日ライハウゼン教授、ウルリケ・ティーデ女史(動物学者)、今泉吉典氏とともに西表島へ。12/11に生き餌ワナを使った自動撮影装置で初めて野生のイリオモテヤマネコの撮影に成功する。』。

彼女はその後、日本文化に関する博士論文を書いている。夫婦で4つ学位を持っていることになる。

モスクワの国際鳥学会議(IOC1982)で夫妻と再会

その後、長谷川博さんはティーデさんと手紙でやりとりをしていたが、私は特にやりとりはしていなかった。でも、1982年8月17~22日にモスクワ大学で開催された第18回国際鳥類学会議で夫妻と再会した。私の国際鳥学会議参加については鳥学通信臨時号の記事をごらんいただきたい。

8月21日にツル類のラウンドテーブルがあって一緒に参加した。ICF(国際ツル財団)のアーチボルトさんが日本で越冬するナベヅルやマナヅルについて、両種の個体群の大部分が越冬する出水では、豚に餌をやるように給餌しているといった紹介があった。ティーデさんが、そういった面もあるが、出水の鳥相はとても豊かだとコメントした記憶がある。

8月22日にはホテルロシアでバンケットがあった。ヴァルター・ティーデさんが近くに座っていたので、カムチャツカの鳥類学者のエフゲニ・ロプコフさんとニコライ・ゲラシモフさんを紹介した。二人とはドイツ語で話していた。日本にいる時からカムチャツカの鳥類にはとても興味を持っていたとのことで、この紹介をとても喜んでくれた(写真1~3) 。

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写真1: Dr.Walther Thiede in Moscow, 1982.
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写真2: 出版されたばかりの日本野鳥の会のField Guide to the Birds of Japan
を見る3人。左からロプコフ、ティーデ、ゲラシモフ
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写真3: ポスター会場で撮影。左からヴァルター・ティーデさん、後ろ向きがレニングラード動物学博物館のネフェリットさん(ツル類の研究者)、吉井正さん(前鳥類標識センター長)、ウルリケ・ティーデさん、正富宏之さん(タンチョウの研究者)。

ヴァルターさんが、私が日本野鳥の会から出版されたばかりのField Guide to the Birds of Japanを2冊もっていると聞いて、その後のバイカル湖方面へのツァーの際にぜひ欲しいということで、彼が書いた鳥の本と交換した。

会場でこのField Guideを持っているだけで、欲しいという人が多く、ロシア、東ドイツ、ベトナムの鳥類学者との間で、この本を送るかわりに、自国の鳥の本を送るとの約束を多くとりかわした(東側の人は輸入することが困難だった)。

あと覚えている情景は、ティーデ夫妻とデンマークからの鳥類学者が数名いて喋っていた場に居合わせ、ウルリケさんが、デンマークもナチについたので、ドイツとともに戦後連合国占領下でとても苦しい生活をした回顧話だと教えてくれたことである。

IOC(国際鳥学会議)とドイツ

1982年のモスクワ大のIOCに参加して、西ドイツがとても力をいれていることを感じた。西ドイツからの参加者も多かったし、西ドイツ大使館が、西ドイツからの参加者のために専用のバスサービスをしていた。東ドイツの鳥類学者も多く参加していた。モンゴルの鳥類(ノガンなど)を研究している東ドイツの研究者がいて、日本のField Guideとドイツの鳥類学の本との交換を持ちかけられた。
実は、その4年前の第17回IOCは西ドイツのベルリンで開催された。「鳥学に国境はない」と、はじめてIOCに参加したスイス出身の鳥類学者ドミニク・ホンバーガーさん(現ルイジアナ州立大教授)は感じ、彼女はその後4年毎に開催されるIOCにすべて参加し、IOCの事務局長として2014年のIOC東京開催にも多くの支援をされた。

ティーデさんの履歴中に、「鉄のカーテンの向こう側の鳥類学者には、長年にわたり無償で文献を提供した。」と書かれている。ベルリンの壁の崩壊後、彼が旧東ドイツの鳥類学の復興に貢献したことも書かれている。ベルリンやモスクワで開催されたIOCでの多くの東側の鳥類学者との出会いを大切にしていたのだと思う。

関係者からのお返事

ここまでの内容を、ティーデさんをご存知の数名の方に送った。いただいたお返事の一部を紹介する。

藤巻裕蔵さんから

『ティーデさんに関する資料ありがとうございます。メールを小川巌さんに転送しました。ティーデさんとは何回かお会いしていますが、何時、どこで、は記憶していません。

私が学生から贈られた端切れを縫い合わせたハンチングをかぶっていたところ、「それはスコットランド製だろう」と言われました。正解だったので、何故わかるのか聞いたところ、スコットランド人は節約家だからということでした。

私は論文の別刷を全て彼に送っていました。多分、彼のコレクションとして活用されているのだとおもいます。藤巻』

長谷川博さんから

『須川 恒 様、
メールをどうもありがとうございました。ティーデさんが亡くなったことを初めて知りました。妻のウルリケさんが亡くなってから連絡が少なくなり、この数年間はほとんどなかったので、どうしたのだろうと気になっていました。齢を重ねたし、月間雑誌の編集の第一線から引退したのだろうか、と思っていたのです。Wikipediaの記事によると、亡くなる直前まで、編集に従事していたことが分かりました。まさに「鳥好きの人生を貫いた生涯」と言えるでしょう。

ぼくは彼だけでなく、ウルリケさんとも長きにわたって深交を結びました。二人が日本に来た時には、たいていの場合に会って(鳥島調査中をのぞき)、神田古書街や探鳥地を案内したり、食事をしたりしました。とくにウルリケさんは、日本学の講義をしていたので、毎年、日本の「空気」を吸うために来日しました。その時にはいつも会って、彼女の質問に答える形で、日本の社会状況についてあれこれを話しました。彼女があまりにも若くして(71歳)亡くなったのに驚き、悲しみました。
こうして時間が過ぎて行くのですね。残念ですが、こればかりは逆らうことができません。その時、自分自身で納得がゆくように、日々、心がけて生きて行くしかありません。

ぼくがティーデさんを知ったのは、小川巌さんによる紹介です。小川さんがティーデさんと知り合ったのは、網走にあった日魯ミンクファームの故寺田周史(てらだひろし)さんを通じてだと思います。寺田さんと竹田津実さんとは懇意で、小川さんは竹田津さんの小屋をベースに小清水で野外調査をしていました。

そもそもティーデさんが寺田さんと知り合ったのはまったく偶然で、網走にバードウオッチングに来た二人に声をかけたことから始まったと、寺田さんから聞きました(当時、網走に来る外国人はいなかったと)。それ以来、寺田さんが亡くなるまで交際が続きました。

ぼくは、ティーデさんの紹介で、寺田さんにお世話になったのです。さまざまな出会いによって、人々のつながりができて行くのですね。振り返ると、ほんとうに不思議です。

悲しいけど、大切なことをお知らせくださり、ありがとうございました。どうぞお元気で。

長谷川 博』

受付日 2014. 7. 4


編集後記:今号は2本の記事をお届けしました。寄稿していただいた方、大変ありがとうございました。

いよいよ第26回国際鳥類学会議(立教大学池袋キャンパス)が近づいて参りました。日本鳥学会にとっても大きなイベントです。多数の方の登録参加を期待しています。

鳥学通信では随時記事を受け付けております。お気軽に記事をお寄せください。皆さんのご協力を期待しています(編集長)。

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鳥学通信は、2月、5月、8月、11月の1日に定期号を発行予定です。臨時号は、原稿が集まり次第、随時、発行します。

鳥学通信 No.43 (2014年7月26日) 編集・電子出版:日本鳥学会広報委員会 和田 岳(編集長)、高須夫悟(副編集長) 天野達也、東條一史、時田賢一、百瀬浩

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