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巻頭あいさつ

故 中村登流博士 追悼記事







日本鳥学会会員の皆様へ ? 日本鳥学会の今後の課題

日本鳥学会会長 中村浩志 (信州大・教育)


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写真.南アルプス塩見岳でのライチョウ調査.
新年を迎え早や 1 ヶ月となりましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。この 1 月から今後 2 年間、引き続いてもう 1 期会長を務めさせていただくことになりました。2 期目にあたり、この鳥学通信の場をお借りして今後の日本鳥学会の課題 2 点についてお話し、皆様のご理解とご協力をお願いしたいと思います。課題 2 点とは、2014 年国際鳥学会の日本開催と 2012 年に迎える日本鳥学会の 100 周年です。

1. 2014年国際鳥学会の日本開催
すでにご存じの方も多いと思いますが、昨年 9 月の熊本大会総会において、2014 年に開催される国際鳥学会 (IOC) を日本で開催する意思がある旨を表明し、今後誘致に向けての準備を進めることになりました。これまで 2 年間、この問題を検討してきた経過について、最初にお話いたします。この件は、前樋口会長から引き継いだ検討課題です。私が会長になって早々、IOC 日本開催検討委員会(委員長江崎保男)を設置して検討頂き、誘致する方向が良いという報告を2006年7月にいただきました。その後、具体的な開催場所や経費等のより詳しい検討のため、IOC 誘致検討委員会(委員長樋口広芳)を設置し、昨年 2007 年 5 月に、立教大学を会場に東京で開催するのがベストであり、日本での開催は十分可能とした報告書を頂きました。この報告について、評議員会で論議を重ね、日本に誘致することに評議員全員から賛成が得られ、昨年の総会で誘致することが正式に決定しました。

 では、国際鳥学会を日本に誘致し開催することは、日本鳥学会にとって、また会員一人一人にとって、どんな意義があるのでしょうか。これまでの論議から、IOC を日本で開催することを通し、日本鳥学会のレベルアップをはかること、また日本鳥学会のレベルを世界に評価いただく機会を持つことにあると考えています。学会員が日本開催という共通目標を持つことで、殊に 20 代、30 代、40 代の若い研究者の多くを世界レベルまで育てることであり、またそれにより日本鳥学会全体のレベルアップを図ることに意義があると考えています。そうではなく、単に会場を提供するだけならば、苦労するだけで、何の意味もないと思っています。

 私自身も日本誘致にこのような大きな意義があると考えるのは、私のこれまでの経験からでもあります。1991 年に国際行動学会が京都で開催された折、托卵鳥のシンポジュウムを主催し、その後軽井沢に場所を移し 2 泊 3 日の托卵鳥の国際会議を開催しました。今考えると大変無理をして 40 代の初めにこの国際会議を主催することがなかったら、現在の私はなかったと思っています。すでにカッコウの研究で業績をあげていたこともありますが、呼びかけに応じ、世界の托卵鳥の主な研究者はほぼ全員参加してくれました。また、軽井沢の会議が有意義であったので、その後国際会議が開かれるたびに托卵鳥の研究者が集まり、会議を持つことにもなりました。その過程でカッコウの托卵行動に関する未解明の問題や進化の仕組みを我々の手で次々に解明することができ、日本のカッコウの研究が世界的に評価されることになったと思っているからです。

 国際鳥学会 (IOC) は、世界の鳥の研究者が 1000 人以上参加する大規模なもので、4 年おきに開催されます。その IOC を 6 年後の 2014 年に日本で開催することになると、今から学会をあげての取り組みと準備が必要です。大会時の運営から始まり、大会の前後に行われるエキスカーションの企画・運営、大会中の朝の探鳥会に至るまで、多くの学会員の参加と協力がなくしては、実現できません。その意味で、昨年の熊本大会では、日本鳥学会が始まって以来の大きな決定をし、今後の学会の大きな目標を明確にしました。会員一人一人が何をできるか今から考え、準備を始めることが望まれます。また、特に若い人には 6 年後の IOC を目標に研究に取り組んでいただき、多くのシンポジウム等を主催していただけたらと思います。

 しかしながら、2014 年に日本開催がまだ決定したわけではありません。2010 年にブラジルで開催される IOC での投票によって決定されます。ですので、当面の学会としての目標は、2 年後に開催されるブラジルでの IOC で日本開催が決まるよう、魅力的な開催計画の立案とアピールが必要です。そのためには、次のブラジル大会に多くの日本人が参加し、研究発表やシンポジウムを主催することが必要に思います。また、これまでの国際鳥学会は欧米中心に行われてきましたので、アジアの他の国の学会とも協力し、アジアの鳥学をアピールしてゆくことが日本誘致につながると考えています。現在、IOC 誘致準備委員会(委員長上田恵介)を立ち上げ、当面は日本誘致の計画案を分かり易く、魅力的な映像にしたものの作成等に取り掛かることになっています。可能ならば、今年 9 月立教大学で開催される鳥学会大会時に会員の皆様にその映像を披露できたらと考えております。日本鳥学会として決めたこの大きな夢を実現するため、会員の皆様方のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

2. 2012 年日本鳥学会 100 周年について
日本鳥学会は、4 年後の 2012 年に創立 100 周年を迎えます。この節目の年を迎えるにあたり、日本鳥学会としてどのような事業等を行うか、今から考えておく必要があると思います。その一つとして昨年の初めに鳥類目録検討委員会(委員長川路則友)を設置し、100 周年の出版をめざし日本鳥類目録第 7 版の準備が進められています。その他、鳥学会 100 年の歴史をまとめた本の出版等、準備に時間のかかる事業から手をつけてゆくことになります。この 100 周年の 2 年後に IOC 日本開催を目指していますので、そのことも踏まえた 100 周年記念事業を考えてゆくことが、日本誘致を実現する上でも有利になると考えています。鳥学会 100 年の歴史を振り返り、その後の 100 年を展望する意義のある節目の年にすることができればと思います。

 以上 2 つの大きな目標に向かって、これからさまざまな課題を克服してゆくことが学会に求められています。会長としての私の役割は、そのためのベースを築くことと考えています。引き続いてご理解とご協力をよろしくお願いいたします。


受付日2008.2.1

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追悼


中村登流博士の略歴

中村雅彦 (上越教育大・自然系理科)

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中村登流先生の最終講義の風景(平成 8 年 1 月 26 日撮影).
中村登流先生は、私の先生であり、上司でした。私のイワヒバリの研究の出発点を与えてくださったのは私が上越教育大学の修士課程の院生の時でした。上越教育大学に就職して初めて社会に出たときの上司が中村登流先生でした。なかなか自分を表に出さない方でした。院生時代に私がゼミの中で、イワヒバリの話をしていたとき、「中村君、あなたの話を聞いているとこう考えた方がおもしろい」といって、つかつかと黒板の前に行き、イワヒバリの繁殖単位をグループとする図を書いたことがありました。私がとったすべてのデータを満足するにはつがいというよりグループとして捉えるのがベストだったのです。後に、そのときの話を先生に話すと、「あの時は、出過ぎた。あまりにおもしろくて、ついつい自分の考えを言ってしまった。教育の失敗です」と言っておられた。

 中村先生のお名前は学会誌や本では Toru となっているが、本当は「のぼる」という。お生まれは昭和 6 年 3 月である。長野県松本市に生まれ、長野県長野師範学校附属小学校、松本女子師範学校附属小学校、南佐久郡野沢町野沢小学校を経て、野沢中学校、松本第一中学校を卒業された。中学校を卒業後、長野県松本深志高等学校に進学、高校を卒業後は信州大学教育学部に進学された。終戦は中学校の3年生の時だったそうで、その頃には図書館から鳥の図鑑を借りてきて、色鉛筆で鳥の絵を描いていたそうです。私の親とほぼ同じ頃生まれ、出身が同じ長野県ということもあって、多くの方に中村登流先生とは姻戚関係があるのですかとよく聞かれるが、全くありません。

信州大学を卒業後、長野県木島平中学校、飯田市高陵中学校、松本市立丸ノ内中学校で教師として勤務した後、昭和 38 年に信州大学医学部の助手として採用されました。その後、信州大学教育学部の助教授として長野県の志賀高原にある教育学部附属志賀自然教育研究施設で鳥類に関する一連の研究を精力的にされました。信州大学勤務は昭和 38 年から昭和 57 年までですので約 20 年にわたります。この間の昭和 46 年には京都大学から理学博士の学位を取得しています。研究材料はもちろんエナガです。

新潟県上越市に居を移したのは昭和 57 年です。昭和 58 年に上越教育大学教授になられ、平成 8 年で退官するまでに上越教育大学附属中学校校長や評議員をつとめ、昭和 58 年から昭和 62 年まで日本鳥学会の副会長をつとめられました。上越教育大学時代には動物生態学研究室、通称、トリ研を主催し、退官までに 70 名の学生を育てました。私はトリ研の大学院 2 期生です。退官された平成 8 年には山階芳麿賞を受賞し、上越教育大学名誉教授になられています。

先生の略歴を書いてみると、波瀾万丈という言葉がぴったりです。その中で一貫しているのは「鳥」です。鳥には人間とは違う別の世界があり、その別世界を観察し、それを描いてみようという気持ちにとりつかれ、それを論文にしたりエッセイにしたり、本にしてきたとおっしゃっていました。研究者には芸風というのがあります。私は黒か白かをはっきりさせないと気が落ち着かないのですが、中村登流先生は黒か白かはっきりしないグレーゾーンをこよなく愛していました。

中村登流先生が亡くなったとき、私はマダガスカルでオオハシモズ類の生態調査に従事していました。調査地が熱帯雨林のジャングルで、電話も電気もないテント生活でしたので、中村先生の訃報を知ったのは葬儀を終えた1週間も後でした。もし、先生に何かあったらまず私に連絡を下さいと奥様にいつも言っていたのに肝心なときに何の役にも立たなかったのが残念でなりません。平成 19 年 11 月 19 日没 享年 76 歳。心からご冥福をお祈りします。



受付日2008.2.4


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待ち望んでいた「イソシギ研究」の公表

浦野栄一郎 (我孫子市在住)

中村登流さんは鳥に関するさまざまなジャンルの著書を多く残されたが,私がもっともよく読んだのは「鳥の社会」(1976年,思索社)であった.鳥が好きで動物の社会や社会行動に関心があった大学生にとって,何とも魅力的な題名の本である.この本は一般に「難解である」と評されることが多く,私にとっても同様であった.しかし,著者自身の研究を織りまぜ,自筆のイラストをまじえて思索の過程を示した本書は「わからない」部分を含みながらも魅力的なものであった.とくに私が在籍していた1つめの大学(院)は,鳥を研究することに理解はあったが,具体的な指導はなく,適当な文献を探すのにも苦労したので,文献表の充実した本書はその点でも「役にたつ」本だった.

 それからかなり後のことであるが,私の学会発表について中村さんに直接ほめられたことがある.それは同じ雄とつがう,オオヨシキリの雌同士の関係を分析したポスターの中で,既に1羽の雌とつがっている雄の元に2羽目の雌が現れた直後の雌同士,雄と2羽の雌との関係を観察できた,わずか3例を記載した部分であった.朝,会場に着くと中村さんが私のポスターを独りで読んでおられた.私は3例では弱いと感じていたのだが,中村さんは「本当に重要な場面というのはなかなか観ることができない.よく観たね.」と励ましてくださった.これは大きな自信になり,多くの事例の分析方法は改善したものの,この記載の部分はほとんどそのまま英文にして論文 (Urano, E. 1990. Jpn. J. Ornithol. 38: 109-118.)にした思い出がある.

逆に申しわけない思い出もある.1994年の鳥学会上越大会で,大会会長の中村さんから大会シンポのコメンテーターを依頼され,お引き受けした.テーマは「配偶者選択と個体群動態」という,たいへん難しいものであった.上越へ向かう列車の中でも宿に着いてからも講演要旨を繰り返し読んだが,全体的なよいコメントが思い浮かばない.本番のシンポですべての講演を聴き終えた.個々の講演は内容的に興味深いものばかりであったが,シンポのテーマに即した十分なコメントは遂にできずじまいであった.その日の夜になって,テーマにとらわれ過ぎず,全講演に共通していた「個体識別に基づく,長期の個体群研究」の長所と短所という切り口でコメントすれば,全体の議論もまた別の展開になったのではと,残念な思いにかられたものである.

このシンポでの講演もそうであったが,当時の中村さんはイソシギの複雑でダイナミックな配偶システムに関するおもしろい研究をされていた.学会発表では何度か聞いたものの,あまりにも複雑なので,論文にまとめてくださるのを待ち望んでいた.しかし,現在では,週刊朝日百科「動物たちの地球」19号 (第6巻:210?214)でわずかにその一端をうかがい知ることができるのみである.学術論文としての枠を多少はみ出しても,著書として「中村ワールド」を展開したものを残していただけていたならばと,残念な気持ちでいっぱいである.

故人のご冥福を謹んでお祈りしたい.



受付日2008.01.18


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詩人で哲学者の中村さん

上田恵介 (立教大・理)

それまでは『鳥の社会』や『森のひびき』といった本でしか知らなかった中村登流さんとの出会いはいつだったろうか?はじめて話をしたのは、覚えている限りは上越だったか、鳥学会大会のエキスカーションで、江崎さんらとしゃべっていたら、横にいた中村登流さんが、「これからの鳥学会を担う若手の皆さんだね」と笑いながら声をかけてくださったことである。

 私たちの世代の研究者にとって、中村さんといえば、エナガの研究者で、鳥の社会の研究では日本の第一人者であった。多くの若い研究者が『鳥の社会』を読んで、『鳥の社会』研究の道を志したことは確かである。

『鳥の社会』は1976年、思索社からの出版である。1976年といえば、ウイルソンの『社会生物学』がその1年前に出て、ドーキンスの『利己的遺伝子』が出た年であった。『鳥の社会』は不思議な本であった。それは『鳥の社会』と銘打ちながら、鳥の社会の概論ではなく、協同繁殖をする鳥の研究例の紹介で多くのページが占められていたことである。Skutch のヘルパーの総説が出て、鳥のヘルパーと利他行動の進化についての議論が一気に出はじめた時期であったが、中村さんはこうした進化的な議論には加わっておられなかった。本の中には利他行動も血縁淘汰も出てこない。あくまでも協同繁殖社会を鳥の社会の一形態としての視点でのみ論じておられた。しかし、鳥の社会を見るときに、何をどう見ればいいのか、どういう見方があるのかということを気づかせてくれた点で、大きな影響を与えてもらった本である。

 中村さんには独特の雰囲気があった。やさしいにこにこしたこの人が、信州大学で、権威の H 先生と激しく対立していた人とは、どうしても思えなかった。そしてどちらかというと、研究者というより、詩人であり、哲学者であったように思う。『森のひびき』や『エナガの群れ社会』を読んでみるとよくわかるが、言葉をとても詩的に操れる人であった。挿絵に描かれているあのエナガの絵も味があってなかなかよかった。

 今、若い人たちが、海外の雑誌にどんどん論文を発表している。その一方で、ちょっといろんなことに余裕をなくしているようにも思う。私は基本的には、現在の鳥学会の発展と若手の活躍を喜んでいる。しかし、中村登流さんの世界もとてもよかったなと思うのである。この状況を中村さんはどう思っておられたのだろう。

 最後に中村さんに謝っておきたかったことがある。中村さんはエナガの次の仕事として、千曲川でイソシギの社会を研究しておられた。その論文が山階鳥研報に投稿されてきた。イソシギの行動と社会システムについて、貴重なデータがたくさん含まれた論文であった。しかし、中村さんの論文スタイルには独特のものがある。それは彼の多くの著書にも共通していることだが、専門用語がちゃんとあるのにいろんな造語をされることである。中村さんの造語は、たしかに的確で、無味乾燥な専門語よりはいいものも多いのだが、それではなかなか一般には通用しない。私の所にイソシギの論文が回ってきたとき、私はかなり厳しい意見を書いた。私にはレジェクトするつもりはなかったのだが、その論文は二度と戻ってくることはなかった。若気の至りである。あのイソシギのデータが世に出ないのは日本の鳥学の大きな損失であると今でも悔やんでいる。

 中村さんは亡くなられたけれど、彼の生き方や、鳥に対する姿勢は、私を含め、次の世代の多くの研究者に大きな影響を与えている。

それでいいではないかと思う。合掌。


受付日2008.1.28

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片想いの鳥類研究者

日野輝明 (森林総合研究所)

「一番影響を受けた研究者は誰?」と聞かれることがたまにある。そんなときに迷わず名前を挙げるのが、R. H. MacArthur と中村登流の両氏である。二人の論文と著書に初めて出会ったのは、研究室に移行して卒論で何をやろうかと考えをめぐらせていた大学2年生のときである。とはいうものの、その頃の私の関心事はもっぱらクラブ活動とアルバイトであり、生態学の知識どころか鳥の名前さえほとんど知らなかった。だから、この二人の著作に出会わなければ、鳥を研究対象に選ぶことも群集生態学をテーマとして選ぶこともなかったかもしれない。そんな私がそれから30年近くたった今も、飽きることなく鳥の群集を研究対象として続けているわけであるから、この出会いが私の運命を決めたといっても過言ではないだろう。二人の著作は私にとってはバイブルのようなものである。くりかえし読み返すので手垢とアンダーラインでどの論文や本よりも汚れているが、その度に両氏の群集の本質を見抜く深い洞察力には驚かされてきた。とはいえ、二人の研究スタイルは好対照である。MacArthur はいわずとしれた数理生態学者であるが、中村さんは間違いなくフィールドワーカーである。とくに中村さんの描く鳥の採食行動は的確で、氏の鋭い観察眼と繊細な感覚でしかなしえなかったものにちがいない。

 このように想い焦がれてきた気持ちを二人に伝え、できるならば自分の研究成果についての意見を聞きたいと思うのは当然のことであろう。MacArthur が 42 歳の若さでこの世を去ったのは 1972 年であるから、その思いは偶像崇拝に近いものである。一方、中村さんは私が学生の頃には 50 歳代だったから、お会いして自分の思いを伝えることもできたはずである。しかし、私が鳥学会に入会したのは 30 歳過ぎに就職してからであった。その頃には中村さんは残念ながら学会に参加されなくなっており、学会で直接お会いしてお話しをしたり研究発表を聞いてもらったりしたことは一度もなかった。ところが、一度だけお話しをできたことがある。それは大学4年生のときに研究室の特別講義に講師としていらっしゃったときである。講義の合間や懇親会の場で、片想いの女性に告白するウブな少年のように、緊張しつつも懸命に自分の想いを伝えた。しかし、未熟で話が拙かったのだろう。期待していたほどの反応が得られず、想いが強すぎた分、失恋でもした気分になった思い出がある。その後も自分が書いた論文や本に手紙をつけて送ったりもしてみたが、お返事をいただくことはなかった。

 いつのまにか私の年齢は大学4年生のときにお会いした中村さんと同じくらいの年齢になっている。今であれば、その頃よりは少しはまともにお話しができたかもしれない。中村さんの訃報を聞いてただただ残念に思うのは、片想いが片想いのままで終わってしまったことである。


受付日2008.1.29

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編集後記


鳥学通信 No. 19 をお届けします。今号から、編集長が国立環境研究所の永田尚志さんから中央農業総合研究センターの百瀬 浩に交代しました。副編集長は引き続き東京大学の山口典之さんが務めます。面白くてタイムリーな情報発信に努めて参りますのでよろしくお願いいたします。さて、今号は 2007 年 11 月 19 日に逝去された中村登流博士(元上越教育大学教授)の追悼特集号です。若い人たちは学会等で中村博士と直接会って話す機会があまりなかったかも知れませんが、今の中堅以上の研究者たちは私も含めて皆強い影響を受けたと思います。優しい目をされていて、時折発する一言が心に残る方でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。(編集長)



 鳥学通信は、会員の皆様からの投稿・企画をお待ちしています。鳥学会への意見、調査のおもしろグッズ、研究アイデア等、読みたい連載ネタ、何でも結構ですので皆様の声をお寄せ下さい。投稿は編集長の百瀬 (mailto: ornith_letterslagopus.com) 宛にメールでお願いします。
 鳥学通信は 2 月、5 月、8 月、11 月の 1 日に定期号を発行します。臨時号は、原稿が集まり次第随時発行します。







鳥学通信 No.19 (2008年2月1日)
編集・電子出版:日本鳥学会広報委員会
百瀬 浩 (編集長)・山口典之 (副編集長)・
天野達也・染谷さやか・高須夫悟・東條一史・時田賢一・和田 岳
Copyright (C) 2005-08 Ornithological Society of Japan

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