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第24回国際鳥類学会議特集号

伊藤基金派遣者によるIOC参加報告

IOC参加記

トラブル記




伊藤基金派遣者によるIOC参加報告


第24回 国際鳥学会に参加して

齋藤武馬 (立教大院・理・生命理学)


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写真1:ハンブルグ街中の風景。ベンツやBMWといったドイツ製の車が整然と駐車されていた。
 第24回国際鳥学会(International Ornithological Congress, 以下IOC)は、2006年8月13日から19日までドイツ北部のハンブルグで開催された。恥ずかしながら、私はこの年齢にして今回初めて国際学会に参加した。それに加え、渡欧したのも生まれて初めての事であった。ハンブルグへは、ヨーロッパ系航空会社の直行便は高価なので利用せず、アジア系の航空会社でマレーシアを経由しフランクフルトに着き、さらに電車で移動したので、20時間以上もかかってしまった。ハンブルグの町並みは日本と違って繁華街でも美しく、土地をゆったりと使っているので、車を止めても車道を塞ぐことがない(写真 1)。駅前でスズメの絵が描いてある変わったゴミ箱を見つけた。面白かったので写真に撮ってみた(写真 2)。

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写真2:駅の近くにあったスズメ(イエスズメではない)の絵が描かれているゴミ箱。なぜスズメなのだろうか?
 これまでIOCについては、過去に南アフリカや北京で開催された時の様々なエピソードを複数の方々から話を聞いていたが、その時は遠い世界の出来事のようで、実際に自分がその学会で発表することなど想像もしていなかった。学会の事前参加申し込み及び、要旨の提出は一年も前に済ませていたのだが、それにもかかわらず、ポスター発表の準備は出発の一日前までかかってしまい、いつものごとく、ギリギリの準備となってしまった。

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写真3:今大会の会場となったCCHの入口。結構立派な建物だった。
 ドイツ有数の都市であるハンブルグは、港町として古くから栄えており、毎年、数多くの国際会議や国際見本市が開催されている。今回の学会でも、そのような催しに使用される国際会議場(Congress Center Hamburg)が使用された(写真3) 。会場は全て一つの建物の中にあり、五層の階の中に10の小部屋と、2カ所のポスター会場、4つのホールが使用され、移動は容易であったが私は方向音痴なので、結局最後までその空間的な位置を覚えることができなかった。初日には、大会の開会セレモニーが行われ、地元の学生さんによる若々しいオーケストラの演奏とともに開会した(写真 4)。その式のなかで、今大会のシンボルがなぜイエスズメであるかという説明があった。それによれば、同種は世界中の都市で見られる鳥で、ドイツの固有種ではないが、過去に迫害され、ドイツ国内で著しく個体数が減少した歴史があり、その保護への願いを込めて、今大会のシンボルとしたということであった(写真 5)。大会の一日の日程は次のようである。朝8:30から大ホールでPlenaryがあり、休憩をはさみ、10:00から分野毎に分かれた8〜9つの小部屋でシンポジウムがあり、午前中は終了。昼食をはさみ、午後13:30から再び大ホールでPlenaryがあり、14:30から16:30までポスター発表、その後、再び8つの小部屋で口頭発表があり、夕食を挟んで20:00からラウンドテーブルや、ホールでの講演という進行が基本スケジュールで、17日を除いて毎日繰り替えされた。まさに朝から晩まで、一日中びっしりとスケジュールが組まれていた。
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写真4:開会式の様子。途中、学生さんによるオーケストラの演奏があった。
口頭発表は、第一鈴がオガワコマドリの声、二鈴がアオガラの声が会場内にけたたましく流れ、移動時間になると音楽が鳴り、発表が長引いたら強制的に終了するような仕組みになっている。これは複数の会場で、同時進行に講演が行われる国際学会においては、講演時間の厳守、それに伴う移動時間の統一という点において、非常に効率がよいやり方であるとおもわれる。国内の学会でもこの方式を取り入れてみてはどうだろうか。講演後の質疑応答は、ほとんどの講演で複数の手が一斉に挙がるほど活発で、時には移動時間の音楽が鳴っても演者と質問者の議論が続く場面も多くみられた。私は英語を聞く事と話す能力に自信がなかったために全く質問をすることが出来なかった。
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写真5:本大会のシンボルとなったイエスズメが描かれている大会のロゴ。
このように、口頭発表は英語で講演することはもちろんであるが、その後の質問を正確に聞き取り、分かりやすく正確に回答する能力も必要とされる。しかし、今の私の会話力では、海外での口頭発表は相当難しいものとおもわれた。

 今大会の発表のジャンルは、生態学、行動、生理、系統、保全など多岐に渡っていた。せっかくだからできるだけ様々な分野の講演を聴かないともったいないと当初は意気込んでいたのだが、いざ蓋を開けてみると、自分の研究に関連する分野の講演を追うので手一杯であったばかりか、よく理解できなかった事も多い有様であった。私はメボソムシクイの系統地理を研究しているので、今学会で聞いた講演の分野は系統学、保全遺伝学、個体群遺伝学などが主であり、かりに今大会の講演の全容を伝えるというのがこの報告文の趣旨であるとすれば、かなり偏った分野の講演しか聞いていないのではあるが、私が興味を持った講演について以下に紹介したいとおもう。  14日午前中は、個体数が著しく減少した個体群や、絶滅危惧種のための保全遺伝学の講演が中心のシンポに参加した。そのなかで、オーストラリア固有のPacific Gullを用いたRobertsonとMeathrel の研究では、サンプル数が実際保持している遺伝的変異の検出にどのように影響するのかを検討しており、一般的な種の個体群では、一地域で20個体分析すれば、99.7%の検出力をもって遺伝的変異を評価できるといわれているが、同種では20サンプルの解析では、50%と低い検出力でしか遺伝的変異を評価できなかったという結果を示した。また、ニュージーランドのタカヘは、個体群が強いボトルネックを受け、遺伝的多様性が極端に低くなっており、中立DNAマーカーを用いた血縁関係の推定がとても困難であることが示された(Jamieson & Grueber)。これらの研究結果は、絶滅危惧種の保全における保全遺伝学の応用の難しさとその限界を示しているという意味において、興味深い話題を提供している。午後からはPhylogenyの口頭発表に参加したのであるが、ある1科に属する全ての種の系統関係について研究しているいくつかの精力的な研究が印象に残った。Tietzeらは、キバシリ科Certhiidaeについて、Yeung らはダルマエナガ科Peradoxornithidaeについて種間の系統関係を調べていた。特に前者はmtDNAと形態の他に音声についても比較するという、私の研究と非常に近い手法を用いており、大変参考になった。16日午前中は、化石種を含めた目レベルにおける鳥類の系統関係についてのシンポがあった。演者の所属する国毎に研究手法の特色があり、主にDNAを調べているのがアメリカで、化石の形態も調べているのがドイツの研究機関であるという印象を受けた。ドイツは始祖鳥など多くの化石種が産出されているので、その分野の研究も盛んなのであろう。

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写真6:観光でリューベックからバルト海に面した町へ向かう途中の風景。沿道にはポプラやマロニエの巨木の並木が続く。
 会期途中の17日は発表が休みの日で、ハンブルグ近郊に出かけるエクスカーションの日であった。私はバンディングステーションを見学するツアーに参加する予定であったが、昼間の時間帯にしか申し込みの空きがなかったので、何も捕れないだろうと考え、それには参加せずにリューベックとバルト海を見る観光に出かけた(写真 6)。翌日、私が一緒に行くはずだったそのツアーに参加された国立科学博物館附属自然教育園の濱尾章二氏の話によると、ヤナギムシクイや、ヨーロッパヨシキリなど、日本ではまず見られない種が放鳥され、それらを間近に観察することができたということであった。私はそれを聞いて地団駄踏んで悔しがってしまった。観光はとても楽しかったし、鳥見もできたのでそれはそれで良かったが、エクスカーションに参加しなかった事を少し後悔した。

写真7:私のポスター発表の様子。左はMartens教授の所の学生さんであるTietze氏。
 私自身の発表は18日がポスターを説明する日だった。はじめは誰もポスターの前に訪れてくれることもなく、しかもすぐ隣の人も発表日だったため、隣の人達で自分のポスターの前が占有されてしまっていた。これについてはもう少し配置を考えて欲しいとおもった。しかし、それにもめげずに横に立っていると、何人かの方々が私のポスターを見に来てくれた。そのなかには、これまで申請はしているが、まだ採択されていないプロジェクトの共同研究者であるロシア人研究者の方も訪れてくださり、初めて直接会えた事にお互い喜び合いながら、今後の日露の共同研究の実現に向けての意思を確認した。さらに嬉しかったのは、音声やDNAを用いた系統地理学の権威である、ドイツの J. Martens教授が私の発表を見にきて下さったことだ。今回の発表では多くの人に自分の発表を説明することはできなかったが、聞いて欲しかった方々に説明できたことは、何よりの収穫だった。

 今回初めて国際学会に参加した一番の感想は、やはり言語(英語)の壁であった。日常生活をするうえで日本語を話していれば不自由しない日本では、欧米と比べ、英会話を身につけるという事においては不利かもしれない。しかし、それは単なる言い訳にすぎない。当たり前の事ではあるが、国際学会においては、自分の研究やそれに関する事について、自分の考えを相手に伝えることが出来なければ、海外の研究者とコミュニケーションをとることはできないのである。

 また、少なくとも系統地理学に関しては、やはり研究の本場は欧米であると今回の学会に参加して強く感じた。というのも、欧米人による研究は調査地域や対象とする材料の規模の大きさが他の国々を圧倒しているのである。しかし、日本には日本の(日本人の)研究があり、その国々にあった研究をすることによって、いくらでも対抗することはできるはずだとおもう。以前からこの分野の研究においては、日本産鳥類のサンプル(DNAや血液サンプル等)を用いて海外の研究者が研究をしたり、試料提供を求められたりすることはよくあることであり、今大会でも台湾の研究グループがリュウキュウコノハズクの個体群遺伝学の研究において優れた発表があった。このような国際的な連携はその分野の研究を前進させ、歓迎すべきことである。もし海外からサンプルの要請があれば、快く提供すべきであるし、海外との連携を深めていくことは日本の鳥学にとってもプラスとなるであろう。しかしその一方で、こちらは試料を提供するばかりで、全て海外の研究者が日本産鳥類の分類や系統を研究してしまうといった状況が起こるとすれば、それはあまりにも悲しいことである。自国に分布する種の試料は、その国にいる人間が一番得やすく、研究する上で最も有利であるはずだから、できるかぎり日本人の研究者が研究し、世界にその研究成果を発表していくのが理想の姿であるとおもう。

 今回の大会は、80もの国々からの参加があり、800を超える演題が発表され、盛況だったといえる。次回の大会は、南米大陸初のブラジルで、その次は未定であるが、スペインと日本が立候補の意志を表明している。次のIOCに参加するかどうかはまだ分からないが、もし参加するのであれば、もう少し語学力を磨いて参加したいとおもう。

 最後に今回のIOCの参加にあたり、日本鳥学会から伊藤基金による派遣助成を受けて参加できたことに深く感謝の意を表したい。この助成金のお陰で飛行機代の全てを賄うことができた。この場を借りてお礼申し上げる。


※この記事は日本鳥学会誌55巻2号フォーラムに掲載されます。


受付日2006.9.15

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第24回国際鳥類学会議参加報告

染谷さやか(東京大院・農・生圏システム学)

2006年8月13日〜19日にドイツ・ハンブルグにて開催された第24回国際鳥類学会議(IOC)に参加し、ポスター発表を行ってきました。国際会議への参加は今回が初めて、もちろん英語でのプレゼンテーションも初めてで、出発前は期待よりも不安が大きく勝る心境でした。今回の大会では、開催直前に近隣国のイギリスでテロ未遂事件があったため、どの参加者にも多かれ少なかれドイツまでの移動に影響があったようです。私も影響を受けた一人で、なんとハンブルグに到着したのは予定より三日遅れの8月14日、大会初日の雨の降る寒い夜でした。ハンブルグまでの道程の想定外のトラブルで失意とともに現地入りしたのですが、重い荷物を抱え、深夜に雨にぬれながらようやくホテルへ到着したときには、もうこれ以上悪いことはないだろうと、逆に不安の解けた自然体の自分がいました。

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エルベ河に面するハンブルグ港。近くには赤レンガの旧倉庫もあり、横浜のような雰囲気。
開催地であるハンブルグは800年以上の歴史を持つドイツ有数の都市であり、また近年はヨーロッパでも有数の荷揚げ量を誇る港町でもあります。エルベ川と運河でつながったアルスター湖周辺から、エルベ川に位置するハンブルグ港までを中心部とし、そのまわりに閑静な住宅街が広がっています。アルスター湖周辺の落ち着いた雰囲気とは対照的に、ハンブルグ港近くは繁華街のにぎわいがあり、新しい文化が古い街に浸透している様子を感じました。

Aluster湖
Aluster湖の様子。休日だったこともありヨットを楽しむ人たちで賑わっていた。遊覧船上から撮影。
大会会場となったCCH Congress Centerは、ハンブルグ市街の中心近く、ダムトーア駅に隣接し、3つの大ホールと様々な用途に応じたたくさんの中・小会場をもつ大会議場で、会場内設備もとても整備されていました。会場への交通の便がよいだけでなく、近くには商店街や庭園があり、会期中は快適に過ごすことができました。また、およそ10日間の滞在期間を通して、生活には思ったほど不便を感じることがありませんでした。出発前には、ドイツは英語の通じない国だ、というお話をいろいろな方から聞いていたので、当初は街でちょっとした買い物をするのにもためらいがあったのですが、ハンブルグではそのようなことはほとんどありませんでした(むしろ自分の英語の方が難有りでした)。英語を話さない地元の方もとても親切で、身振り手振りで十分意志疎通ができました。ドイツの方は概して押しが強い印象を受けましたが、根は鷹揚で暖かみのある人柄の人が多かったように思いました。行き先を調べるために地図やガイドブックを見ていると大概誰かが助けてくれるのですが、ある時は地下鉄の乗り換えを聞いているのにバスを使えと強固に勧められたりしました。どうしても地下鉄で行きたいとこちらも頑固に言うと、非常に残念そうに地下鉄の乗り換えを教えてくれました(笑)。また、挨拶の大事な国なのだなとよく感じました。どんな小さな店でも無言で入ると誰も対応してくれませんが、一言挨拶するだけで、笑顔で話しかけてくれることが多かったように思います。一日が終わると、飲み水や果物を買いに滞在ホテル近くの雑貨店に寄ることが多かったのですが、連日通ってつたなく挨拶しているうちに顔なじみのようになり、そこの若い女性の店員さんが会計の時にドイツ語で何か話しかけてくれるのが楽しみでした(意味はよくわかりませんでしたが)。

大会プログラムの内容は生態・生理・行動・系統・分子・保全など各分野から多岐にわたり、最新のトピックをしっかり押さえているという印象を受けました。時間割りは、毎日朝8:30のPlenaryから始まり、午前中はシンポジウム、お昼をはさんで午後のPlenary、ポスター発表、口頭発表、夕食後はRound tableと22:00まで息をつくヒマもなくプログラムが組んでありました。少し気を抜くと発表内容がさっぱりわからなくなってしまうという英語力の身の上には、午後になると集中力が切れやすくなるなど、なかなか厳しい面もありましたが、さすがに国際学会での発表とあって、どの発表もスライドや構成がよく考えられており、演者の主張が明確でわかりやすく大いに助けられました。さらに大会要旨の力も借り、いろいろな発表を楽しむことができました。印象に残ったのは、開催国ドイツがリードしてきた分野の1つである、鳥類の磁気感知に関する発表が充実していたことです。特に、この分野の草分けであるW. Wiltschko(電磁コイルを用いた磁場の操作と行動証拠から、1970年代以降、渡り鳥の磁気利用について数々の知見を提供)のPlenaryを聞き、Wiltschkoが1970年代から現在までこの分野のトップランナーであり続けている事実、磁気受容に関する研究がすでにメカニズムレベルまで進んでいることを知りとても驚きました。と同時に、自分の知識の古さに少なからず動揺してしまいました。このPlenaryだけでなく、たくさんの発表に出席し、活発な質疑応答を聞いていて感じたのは、参加者としての自分の準備不足でした。日本を離れる前は自分の発表内容ばかりに気をとられていて、気づけばこの大会に参加する聴衆としての主題を持っていなかったのです。発表をただ楽しむだけでなく、自分の研究に生かせる形で取り込めたらどんなによかったでしょう。この悔いは次回の大会参加に必ず生かさなければなりません。

初めての国際学会発表で少し緊張.
 ポスター発表は会期中のうち4日間(14・15・16・18日)の決められた時間に割り振られており、発表者は分野別・奇数偶数別に4組に分けられそれぞれの組に一日ずつ発表日が与えられていました。ポスター会場は受付ロビーのある階の奥に用意されており、天井が高く開放感のある広いホールでした。それにもかかわらず、ポスターの掲示版は屏風状に10枚ほどを一組として連結して設置されており、隣接するポスターは訪問者が互いに邪魔になり、窮屈な印象を受けました。ほとんどの場合、隣接するもの同士は連番なので、奇数偶数別で発表日が重ならず問題はなかったようですが、欠番のあったときには奇数同士、偶数同士が並ぶなどまったく配慮がなされておらず、お気の毒な方も何人かいました。私のポスターではそういったトラブルは無かったのですが、隣接するポスターと自分のポスターのどちらに訪問しているのかわからずに声をかけそびれる、または、訪問者と勘違いして声をかけ困惑されるという状況が何度かあり、掲示形式に多少の疑問を感じました。発表では自分の英語力の無さに意気消沈する場面も多々ありましたが、概ねどの訪問者も辛抱強く発表を聞いてくださいました。また、これまでにアジサシ類でDNA分析を用いて種内構造を解析した研究例がほとんどないということもあり、アジサシ類が減少傾向にあるヨーロッパ地域の研究者の方が何人か訪問してくださり、意見や情報を交換する貴重な場を持つこともできました。今回の発表は決して大成功だったわけではありませんでしたが、少なくとも私のポスターに興味を持ってくださった方には精一杯対応できたことで、予想以上の成果があったと思っています。反省点としては、やはり語学力が一番に挙げられると思います。また今後は、扱っている分類群に興味を持ってもらう以上に、研究手法や研究内容により興味を持ってもらえるように精進していきたいと強く思いました。

最後に、第24回IOC・ハンブルグ大会に参加するにあたり、日本鳥学会伊藤基金より派遣助成金をいただきました。この場をお借りして心からお礼申し上げます。ありがとうございました。


※この記事は日本鳥学会誌55巻2号フォーラムに掲載されます。



受付日2006.10.2

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2006 IOC (ハンブルグ)で得たもの

富田直樹 (大阪市大院・理・生物地球系)

今回のIOCに参加してもっとも痛感したことは、英語を話すこと・聞くことがいかに大事かということであった。こんなことは以前から分かっていることであり、当たり前のことであるのだが、そのことを実感できたハンブルグの旅であった。これまで1回しか海外に行ったことがなく、その1回も大学の航海実習で韓国に連れて行ってもらったようなもので、実質、個人で海外(しかもヨーロッパ)に行くのは初めてだった。したがって、英語に慣れているわけでもなく、英語能力はかなり低いレベルにあった。IOCの要旨の提出期限は、大会の1年前であり、他の学会に比べてかなり早く設定されている。そこで大会までの1年間で英語の勉強もしようと心に決めたのだった。しかし、いつものようにと言うかいつまでたってもと言うか、ポスターの準備などで出発ぎりぎりまでバタバタし、まったく英語の勉強をしないままでIOCが始まってしまった。

IOCの発表は口頭発表が約400件、ポスター発表が約500件と多く、そして人も多かったので、まずスケールの大きさにかなり圧倒されてしまった。今回、IOCで発表した内容は、私が主に研究している卵黄内ホルモンに関することではなかった。しかし、IOCには卵黄内ホルモンの研究者がたくさん参加しており、この機会を逃す手はないと思ったが、まともに議論できるくらいの英会話力もなければ論文もない。そこで、最低でも自分が何をやっていて、ウミネコは興味深い種なのだということだけでも伝えようと思い、目当ての研究者に話しかけることにした。
ジョッキ
1Lジョッキ(左)と500mlジョッキ.
話しかける時はいつも緊張しっぱなしであまり話しになっていなかったが、相手が耳を傾けてくれたのでかなり助かった。ほとんどは相手にされていないような感じもあったが、その中で一つ、うれしい成果があった。日本に戻ってしばらくしたある日、話しかけた一人からその人の博士論文が郵送で送られてきた。その研究者は、まだ若いのだが目標にしている人のひとりであり、そのおかげでその後メールをやりとりできるようになった。このことは、世界の研究を目の当たりにし、自分の未熟さを痛感し、いろんなことを勉強でき、本当に行って良かった思えたIOCをさらに印象付ける出来事であり、自分にとって一番の成果であった。

しかし、本当のところ最も印象に残っているのは、1リットルジョッキに入ったビールとソーセージを堪能できたビアホールかもしれない。



受付日2006.9.29


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第24回国際鳥学会議に参加して

森さやか (東京大院・農・生圏システム学)

 今回は私にとって初めての国際会議参加,初めての英語発表,初めてのドイツだった.IOCの規模の大きさや分野の多様さは参加経験者に聞かされていたとおりで,国内の学会では味わいがたい「鳥学」の幅広さを認識できた.学会の規模の大きさもさることながら,特に私が重点的に聞きに行っていた個体群関連の発表では,継続的に行われている研究プロジェクトの規模の大きさにも改めて圧倒させられることが多かった.

 私は分断化した森林でのアカゲラの個体群維持機構についてポスター発表をした.今回の会議では「Current global conservation status of woodpeckers」というラウンドテーブルも企画され,キツツキの研究者と森林生態系保全に携わる研究者などが(多分)30名強参加していた.キツツキ類の保全に関する各地での個別の問題,新しい知見や調査法についての情報交換,さらには国際的な保全政策についても意見・情報交換が行われた.種やその生息環境の保全を行うには対象種や近縁種の個体群生物学的な知見が求められるが,キツツキ類では一部の協同繁殖する種を除いてほとんどこのような研究は進んでいない.そのため,基本的な人口統計学的データの蓄積や研究者間のネットワーク作りも課題のひとつとして認識されている.私はラウンドテーブルの冒頭での自己紹介のついでに,自分のポスターをへたくそながらもちゃっかり宣伝することができ,このラウンドテーブルのオーガナイザーや参加者にもポスター発表に足を運んでもらうことが出来た.特にポーランドで私と類似した研究を行っている研究者には,何度も熱心にポスターを見に来ていただき,現在の研究の進行状況に対して多くの有意義な助言と励ましをいただいた.他にもポスターを見に来ていただいたり,会議開催期間を通じて知り合ったりした方々がいたが,その大部分とは緊張と英語力不足との相乗効果もあって十分に議論や交流を深められず,チャンスを最大限生かせなかった気がして悔やまれる.しかし,一線で活躍する研究者との面識を得られたことはきっと今後の研究活動上の財産となるはずであると信じることにして,次の機会にはより積極的な姿勢で参加できるように,勉強と調査に励みつつ度胸と英語力も磨いておきたい.



受付日2006.9.29







24th IOC に参加して

小高信彦 (森林総研九州支所)

IOC会場入口
イエスズメ
24thIOCのシンボルキャラクターはイエスズメ(雄)。ドイツには固有種や特筆すべき希少種がいないこと、近年ヨーロッパ各地でイエスズメの個体数が激減していること、またイエスズメはよく研究されていることなどの理由から大会マスコットの名誉に預かったとか。ハンブルグでも過去30年間で半数まで個体数が減少しているとのこと。
 楽しみにしていた「国際鳥学会(IOC)」に、この8月、初めて参加することができました。南ドイツのベルヒテスガーデンで開催された「国際キツツキシンポジウム」以来、5年ぶり、二度目のドイツ入りです。連日真夏日の日本から降り立つと、ハンブルグの街はもう秋の気配。ワールドカップで報じられた酷暑がウソのように快適な気候でした。会場のコングレスセンターは立派なビルで、玄関口には大会マスコットのイエスズメ。日本でIOCを開催するとなれば、マスコットは何がいいだろう?と考えながら会場に入っていくと、お揃いの赤いシャツを着たスタッフたちが丁寧な英語で出迎えてくれました。

 今回のIOCへは、ポスターで亜熱帯島嶼に生息するノグチゲラの採餌行動に関する研究について発表し、樹洞営巣性鳥類群集に関する研究や島に生息する希少鳥類の保護についての動向把握、新たな研究の切り口の模索、キツツキ研究者との交流を深める、などの目的を持って参加しました。これらの目的を達成すべく、Nest-Webを提唱したKathy Martinさんらが世話役をした樹洞に関するシンポジウムや、国際キツツキシンポジウムの主催者でもあったPeter Pechacekさんらのキツツキ類の保全に関するラウンドテーブルに参加し、また、カカポやキーウィの保護に関する発表などをチェックしました。キツツキ類のラウンドテーブルでは、ご指名を受けてノグチゲラについて説明をしたのですが、改めて、日本の固有種であり、絶滅危惧種であるノグチゲラへの関心の高さを実感しました。研究の今後の切り口としては、「ecological trap」に関する一連の発表が参考になり、現在私達が取り組んでいるやんばる地域の生物多様性に与える人為の影響について捉えるコンセプトの一つとして、使えそうな手応えを得ました。

ハンブルグ駅
ハンブルグ中央駅。最終日のバンケット前の時間帯、爆弾騒ぎで数時間全面封鎖されました。ヒースロー空港のテロ騒ぎに続いて緊張が走りましたが、特段の被害は無かったようです。
 12年前、日本鳥学会に通い始めた頃もそうだったのですが、論文や教科書でいつも目にして、その業績を引用させて頂いている研究者たちと直接話が出来ることは、国内外を問わず嬉しいものです。そんな研究者達が自分の研究を引用し、論文や図鑑などを執筆したと知ったときの喜びもまた格別です。今回一つ残念だったのは、私と同じ年にキツツキの繁殖行動に関する研究で博士論文を書いたKlaus Michalekさんと再会できなかったことです。彼は、前述のキツツキ国際シンポジウムで初対面の時に、僕に握手を求めながら「君のことはアカゲラの一妻多夫の論文で知っているよ。」と声をかけてくれました。ヨーロッパに単身乗り込んで心細い中、初対面の彼がおもむろにかけてくれた言葉はとても嬉しく、今でも研究への大きなモチベーションになっています。いつかまた再会したときには、お互いの研究について議論しながら、うまいビールで乾杯したいものです。



受付日2006.9.30







もうひとつのIOC: Impossibly Overcrowded Concourse

江口和洋 (九州大学大学院理学研究院)

 「ここはヒースロウ空港だ.難民がいつ来るとも知れない船を待つベイルートの港ではない.」と,自分を納得させるのに少々時間を要したほどに,目の前の光景が信じられなかった.8月13日の早朝5時.

 第24回 IOC (国際鳥類学会議)は8月13日からドイツ・ハンブルクで開かれる.ハンブルクまでたどり着くためのオプションのうち,福岡から最も楽に行けるキャセイパシフィック,英国航空を乗り継ぐルートを選ぶのは理にかなっていると思えた.8月11日にロンドンで飛行機爆破テロ計画が発覚するまでは.私の出発は12日.ロンドンには13日の早朝に到着する.3時間の乗り継ぎだからそれほど大変でもあるまいと大変お気楽に思っていた.福岡空港でスーツケースをハンブルクまでチェックインしたときに,カウンターの職員から「ロンドンでの乗り継ぎの時に,持ち込み手荷物を預け直すことになります.ここでクレジットカード,現金,チケット,パスポート以外の物を預けられた方がいいですよ.」と,アドバイスしてくれた.一瞬迷ったが,空港の乗り継ぎカウンターで荷物を渡せば済むのだろうと,これまた楽観的に考えてデイパックを持ち込んだ.思えば,この判断が後から起きる悲劇を少しは軽くした.

 さて,英国航空へ乗り継ぐためにヒースロー空港第1ターミナルへ来てみると,係員が乗客を透明袋準備組と通常の持ち込み手荷物持参組に分けていた.英国政府は警戒レベルを第1級に上げ,機内持ち込みを極端に制限し,荷物検査を厳しくした.そこで,最小限の必要品を透明袋に入れた物だけを持ち込んだ乗客は,液体,たばこなどの有無をチェックされただけで待合いゲートへと通され,それ以外は無条件で入国検査をした後にいったん乗り継ぎ区域外に出ることになった.「しまった.これは作戦ミスか.」と,思ったが,結果的にはそうでもなかった.

 入国検査を済ませて出発ロビーへ出てみて驚いた.建物の中は掻き分けないと前へ進めないくらい大勢の人でごった返していた.どこに並べばいいのか解らないので,近くにいた係員に尋ねると,搭乗券をいちべつして,「ああ,この便は外だ.外の列に並んでください.」という返事が戻ってきた.「えっ,外!?」と,驚きかつ不審に思いながら建物の外へ出ると,駐車場,バスターミナル,道路のあちこちが人で埋まっていた.行列という線状のものではなく,豆をまき散らかしたように,分布に濃淡はあるが,どこが前でどこが後か解らないような,そんな状態だった.駐車場には大型テントが見える限りでは2〜3張りほど立てられて,どうやらそこで何かの手続きがなされているらしい.しかし,大多数は雨空の下,小雨に濡れていた.どう見ても難民キャンプの様相である.とにかく,一つの塊の後について,順番を待つことにした.周りの人と話してみるとだんだんと気が滅入るような情報ばかりだった.「自分はもうここで2時間待たされているが,でもまだいいほうだ.あの人達なんか,もう24時間以上待っているそうだ.」と,バス停のベンチで眠っているグループを指さした.自分の乗り継ぎ予定の便は3時間後の8時過ぎだ.しかし,今日中にたどり着けるのか?

空港
ヒースロー空港のバス停で混乱の中にある乗客たち.左の空港ターミナルビルの中もごったがえしている.
 並び始めて1時間ほど経過して,雨空の下からバス停の屋根の下まで進むことが出来た頃,自分の搭乗予定便を含むいくつかの便についてのアナウンスがあった.外にいるのでよく聞こえないので,隣にいる人にどういう事を言っているのかと尋ねると,「今放送した便に乗り継ぐ予定の人はあのテントへ行けということだ.」と,50mほど先のテントを指さしてくれた.事態はそれほど悪いわけではなさそうだとテントへ来てみると,入り口からこれまた長い行列.見通しのつかない長い列から,見通しのついた長い列へといった程度の進展だった.それでも確実に行列は進んでいる.先頭は全く進んでいないのになぜだろう.それは,時々係員が来て,「ここは乗り継ぎ客だけです.ロンドンから出発する人はここではありません.」と言いながら,搭乗券を持たない乗客を引きはがしていくからである.なぜ,乗り継ぎ客優先だろう.後でわかったが,テントへ行けとのアナウンスがあった時点で,それぞれの便の欠航が決まったのである.我がBA964便もその一つだった.

 テントに並んで1時間半ほどして,係員が青い整理券を配りだし,行列が進み出した.これでやっと建物へ入る権利ができて,チケットカウンターへの行列へと前進することになった.そして30分後には代替便の搭乗券を確保する事が出来た.一見無秩序に見えてもちゃんと秩序はあるのだと感心しつつ,14時55分発のBA510便を待つことにした.しかし,これまではトラブルの半分でしかなかったことは神ならぬ身にはわかりようがなかった.

 クレジットカード,パスポート,現金,チケットを透明ポリ袋に入れた物だけという,報道通りの厳しい持ち込み制限で,カメラも学会発表のパワーポイントファイルの入ったUSBメモリもデイパックに入れて預け入れた.飛行機は1時間10分ほどでハンブルク空港へ到着.やれやれと思いながら荷物受け取りロビーにやってきたら,そこに悲劇が待っていた.

 日本でチェックインしたスーツケースが出てこない.代わりに引き取り手のない荷物が3つだけ,いつまでもぐるぐる回っている.これは冗談じゃないぞと,Baggage Tracingのカウンターへ行って,荷物の未着を申告した.係員はよくあることだと言いたげに,バゲージタグの半切れにあるIDとフライトコード,こちらの連絡先をインプットし,見つかったらすぐにホテルに連絡すると言って,赤いチケットをくれた.その時点で18時,朝5時からの騒動が,問題未決着のまま,疲れだけ残して終わろうとしていた.しかし,疲れて,落ち込んでいるときは新たな悲劇の種を蒔くことはよくある.

 空港内の観光案内所で,市内地図とホテルまでの道筋を尋ねて,最寄り駅までのバスに乗った.乗ってから5分ほど経つか経たないかして,いやな予感に囚われた.機内に持ち込んだ全財産(?)とチケットを入れた透明袋.あれをデイパックに入れたような,入れなかったような.デイパックの中をのぞいてみると,無い!!そう,あの案内所のカウンターの外側の荷物置きに置いたままだ.一瞬,血の気が失せた.あれがないと,1週間生活が出来ないし,発表できない,日本へ帰れない.あわててバスを止め,ターミナルへと駆け戻った.置き忘れてから15〜20分ほど経過していただろうか.あの透明袋.あった!!!人が少なかったことが幸いしたのだろうか.たとえ,善意の人がどこかに届けていても,それを追跡するのは容易ではなかっただろう.力が抜けた.それからは,一瞬気を抜いた後にはいつも,自分が何かとんでもない失態をしてはいないかという強迫観念に囚われて,気の休まることがなかった.

エクスカーション
エルベ河畔湿地保全地へのツアー参加者.旧東西ドイツ国境の監視塔後で説明を聞く.手前左がイスラエルの A. ザハビ教授.
 さて,スーツケース.こんな事件はよくあること,1日経てば見つかるだろう.今はネットワークシステムが確立しているんだと,赤いチケットに書いてあることを信じて,荷物についてはそれほど心配せずに待っていた.ところが,1日経ち,2日経ち,3日経っても連絡はない.3日目に空港に直接出向いて英国航空に問い合わせても,まだ見つからないという返事.記憶にある限りでは,スーツケースに入れたのは,着替えと洗面道具.無くなっても惜しくはないが,当面の生活には困る.仕方なく,下着,靴下などの着替えや洗面具,雨具代わりのレインパーカーなどを調達した.とんだ物入り.学会期間中,日本からの参加者と出会ったときの挨拶は,「荷物届きましたか?」,「まだですわ.」に,定着してしまった.

 結局は学会期間中には届かなかった.新聞報道では2万個近くの荷物が行方不明になったとか.学会参加者にも被害者は少なくなかったようで,最終日夜の懇親会では,荷物未着ワースト3が紹介されて,それぞれ賞品をもらっていた.私はその日は懇親会まで会場にいなかったので,そのような賞への参加受付けがあっているとは知らなかった.でも,1位と3位の人に聞いたところ,3位が三日前(自力でヒースローへ出かけて見つけたそうだ),1位が当日の朝に荷物を受け取ったそうである.自分のはまだ出てきていない.申告していたらダントツの1位で,賞品をもらえたのに.

 帰国前日まで荷物は行方不明のまま.ついに,「帰国のチェックインの時に受け取れるんだろう.」というジョークが挨拶に加わった.その帰国の朝,念のためにチェックイン前に英国航空カウンターで尋ねると,「荷物はこちらにある.トラックで来るが,今日は日曜なので,明日にしか届かない.」という返事.何のこっちゃ!

 今の時点でまだ荷物は受け取っていない.でも,日本へは届いている.結局,この荷物は何のために持っていったのだろう.でも,今あることに思い至って,背筋の寒い思いをしている.もし,出発の時に荷物の到着を少しも疑わず,係員の勧告に素直に従って,クレジットカード,現金,パスポート,チケットだけを持ち込んでいたらどうなっていただろう.パワーポイントファイルは到着せず,何のためにIOCに出かけたのかわからず,ただ恥をかいただけになっただろう.ああ,恐ろしい!!



後日談:結局,スーツケースは成田の税関に到着していて,通関手続き依頼後の帰国 してから4日目(8/25)に届きました.布製のスーツケースの中は濡れているという ほどではないですが,じっとりとした感じで湿っていました.思うに,ヒースロー空 港で雨ざらしになっていたのでは.



受付日2006.8.23


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編集後記


 今回は、8月にハンブルグで開催された第24回国際鳥学会議 (IOC)の特集号です。IOCに初めて参加した5人の若手研究者に参加記を書いてもらいました。また、直前のテロ未遂事件のためのトラブル記を江口氏に寄稿していただきました。

 私自身、ハンブルグの国際鳥学会で5回目の参加になります。伊藤基金派遣の1期生として、初めて国際鳥学会に参加したのは、16年前の1990年にクライストチャーチで開催された第20回大会でした。今回のハンブルグ大会に参加するまで、第20回大会を越える大会はありませんでした。1994年のウィーン大会は、ホフブルグ宮殿という史跡で行われたのですが、王宮故に廊下がなく部屋間の移動はスクリーンの後ろのドアを通らなければならないという不便きわまりない会場でした。大会内容も、後から参加した研究者の誰に聞いても「less organized」congressというほど、大会そのもののは、あまりよくありませんでした。1998年のダーバン大会は、大会そのものは組織化されていましたが、ホテルから会場までのたった1kmも送迎バスを使わなければならないほど、治安が悪いところでした。皆で歩けば怖くないと町中を歩いていて、最後尾を歩いていたK氏が路地に引き込まれそうになり、両手をひっぱりあったことさえありました。アジアで初めて開催された2002年の北京大会は、羽毛恐竜の化石展示があり中国色が色濃くでていましたが(残念ながら、写真撮影禁止)、欧米からの参加者が少なく、国際学会としては、いまひとつという印象しか残っていません。

 ハンブルグ大会についての詳細は、初参加の5人の方の新鮮な印象を参照してください。大会全体としては、系統、行動生態、ソング、渡り、個体群動態、群集、保全と万遍なくカバーされていました。私自身は、自身のシンポジウムである個体数モニタリング関連と、現在、興味のある寄生虫関連(ウィルスから外部寄生虫まで)を渡り歩いていました。ひとつ残念だったのは、多くのポストコングレスツアーが取りやめになり、中止の連絡が事前に来ずに、会場に行ってはじめて知らされたことです。日本鳥学会でも、2014年(あるいは、2018年)の国際鳥学会を誘致を検討する委員会が組織化されました。将来、日本でも、国際鳥学会が開催できることを期待しています。(編集長)



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鳥学通信 No.9 (2006年10月10日)
編集・電子出版:日本鳥学会広報委員会
永田尚志(編集長)・山口典之(副編集長)・
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Copyright (C) 2005-06 Ornithological Society of Japan

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