ちょうど3年ほど前、『カラスの教科書』という本を雷鳥社より出版させて頂いた。最初の「カラスの写真集に解説を書く」という企画が何をどう間違ったのか、ゆるふわ気味にカラスを紹介する本になったが、幸いにして望外の好評を頂いた。上司には「二匹目のドジョウ、早く狙いなよ」と言われたのだが、絞り尽くしてスッカラカンな頭からこれ以上どうやってネタを取り出せばいいのか。
しかし。鳥の話をすれば、どうしたって内容が展開して行くのを止められない、という経験はないだろうか?
例えば、オープンカフェでデート中、アイスラテを手にした彼女が飛び交うツバメを見ながら、ふと「ツバメって冬はどうしてるの?」と聞いたとしよう。その時、鳥類学者の脳内には「渡り鳥と留鳥」「シベリアツバメの越冬個体群」「沖縄での情況」「捕獲によるマーキングの重要性」「渡りのコース」「アルゴスはいいけど重くて高い」「ジオロケーターとGPSデータロガー」「渡りの起源」「鳥のナビゲーション」「ツバメの集団ねぐら」「夏鳥の減少」「コシアカツバメの比率」「サイト・フィデリティとメイティングの過程」「雄の魅力とハンディキャップ仮説」「尾の長さに関するメラーの実験」「フラクチュアル・アシンメトリー」「ストレスと白斑」「放射線ストレス」「巣の乗っ取りと子殺し」「適応度」「利己的遺伝子」「営巣場所の変化」「環境変化がツバメに与える影響」「アシ原の保全」「ツバメと人間の関係」「ツバメの名を関したあれこれ」「燕尾服と結婚式」など様々な話題が連鎖的に展開されるはずだ。
これこそ鳥類学。生態学や分類学という分野に基づくカテゴライズがあるにも関わらず、「鳥」という対象動物を軸として各分野に展開される、互いに関連しあった世界である。思い付くままに「そういえばね」「〜と言えば」とネタは続く。どこまでも続く。ふと気づいたら目の前に彼女はおらず、伝票だけが残っているだろう(註1)。
『カラスの教科書』を書いた時にも、カラスにまつわるエトセトラは色々と盛り込んだ。だが、内容は手加減したし、最終的には多くを削った。小難しすぎて一般受けしなさそうだったり、説明しだすと長くなりすぎたりしたからである。「世間一般」は学者が考える以上に、理論とかグラフが嫌いだ。うっかり持ち出すと内容以前に拒絶されるか寝落ちされる。
だが、削った部分には鳥類学の面白さの要点が含まれており、それ自体がネタの数々であって、それこそ「自然科学的な旨味」なのだ。「カラスちょっとかわいいかも」の次は、やっぱり、カラスをちゃんと鳥として見てほしいし、きちんと「鳥類という生物」として理解してほしい。その面白さも理解してほしい。ならば、普段、自分がついつい話してしまうように、「〜といえば」を展開してやろう。今回の本はどう工夫しようとも多少説明っぽくなるだろうが、「その先にある面白さ」を求める人に伝わるならば。
ということで、『カラスの補習授業』が雷鳥社より刊行予定である(11月中に出るかどうかだが、ひょっとしたら遅れるかも)。多分、今度も400ページくらいになる。前著に引き続き、「カラスくん」も全編に登場する。より科学っぽくお楽しみ頂けるものになっているか、削りカスを集めた糠団子にすぎないか、それは読者の判断に委ねるとしよう。
註1)この場合は「ツバメ? ああ、冬の間は水の中で冬眠してるよ」とでも答えておくのが、適応的な戦略である。