ヨーロッパの大学に留学してみた④ 研究の話

(前回の③ドイツでの生活はこちら)
よくハリーポッターになった夢を見てしまう私にとって、マックスプランク鳥類学研究所はホグワーツ城と言ってもいい(ちなみに悪夢では、7割方ヴォルデモートにアバダケダブラされる)。建物の形こそ違えど、迷子になるほどの広さ、湖のほとり、フクロウ小屋ならぬ数々の鳥小屋、第一線で活躍する研究者の先生方、世界からやってくる人々。研究を志すひとにとって素晴らしい環境であることは間違いない。

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ラボの皆で鳥を見に行ってナベコウを見つけたとき。ドイツでは珍しいらしい。

私が所属していた研究室はHenrik Brumm先生のグループで、動物のコミュニケーションと都市の生態学をメインに研究している。メンバーは、先生、ポスドクの方、研究アシスタントの方と私のなんと4人だけ!というミニグループだった。つまり学生より指導者の数のほうが多い。おかげでそれはそれは手厚い教育を受けさせてもらっていた。

閉じた狭いコミュニティでは人間関係の円滑さが気になるところだが、私がここにきて最初の日に先生が「少しでも不快なことがあったら何でも言いなさい。全部解決しよう。」と言ってくださったのが本当に心強かった。言葉通り先生は違う文化圏からきた私のことを非常に気遣ってくださり、そして同時に素晴らしい指導者であり研究者であって、非常に尊敬できる人だ。来た時から私は先生のことを密かにダンブルドア先生のようだと思っている(というと先輩にそこまでお爺さんではないでしょうと言われてしまうのだが)。

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ドイツに熱波が来た日。皆で隣町まで行ってアイスクリームを食す。南ドイツは札幌並みに涼しいので、名古屋出身の私にとってはそれほどでもない。

さて、私がBrumm先生の元に来たのは、車や飛行機など都市の騒音のなかで、鳥がどのように音声コミュニケーションを行っているのかに興味があったからだ。きっかけは、留学前に『都市で進化する生物たち “ダーウィン”が街にやってくる』(メノ・スヒルトハウゼン著,草思社,2020)という本を読んだことである。

その本の第16章は「都市の歌」。2003年の研究によると、都市にすむヨーロッパシジュウカラのさえずりは、そうでない場所のものとは異なっているらしかった。街の騒音は、車の音に代表されるように、音程が低いことが多い。都市にすむシジュウカラは、自分のさえずりの音程を高くすることで街の低音ノイズにかき消されないようにしているとのことだった。

その辺にいるシジュウカラでも、実はその辺に「いられる」理由があってのこと。自分が住んでいるまちの周辺だからこそ面白い動物の現象が転がっているかもしれない。その章を読んでいた私の顔は、ハリーがはじめて箒に乗った時のようにキラキラしていたに違いない。あるいは最近のマイブームで例えるならば「アーニャ、わくわくっ!!」顔である。

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ヨーロッパシジュウカラ。日本のシジュウカラとは特にお腹の色が違う印象。

修論では騒音に対する歌行動の変化を研究することにした。カナリアを対象に、次々と離着陸する飛行機や往来する車をラフに模した断続的なノイズを聞かせてみた。予想としては、彼らはノイズが途切れるタイミングを学習して・あるいはノイズは待っていれば途切れるということを学習して、ノイズとノイズの間の静かな時間に歌うようになる、と考えていた。

ところが、ことごとくカナリアが予想に反した行動を示した。グラフを描き全体像としてはっきりとその結果を見たときには、俄かには信じがたいものがあった。驚いたと同時に、私は絶望した。ああ、はやく一本目の論文が欲しかったけど、これでは書けないのだろう、と。しかしBrumm先生は言った。「論文化しよう!」

ということで現在はその結果を絶賛投稿中である。レビュアーからの厳しいご指摘を読んでいると凹んでしまうこともあるが、大好きな共著者のみなさん、つまりマックスプランクの研究室メンバーに支えられてなんとか持ちこたえている。どうにかそのうち世に出せることを祈っている。

(続く?)
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translatEプロジェクトについて

海外での研究シリーズ、オーストラリアでの研究の様子を3回に分けて紹介していただいた天野達也さんの記事は、今回で最終回となります。天野さんは本記事でも触れられている研究内容で第18回学術振興会賞を授賞されています(授賞理由等詳細(PDF)クイーンズランド大学のニュース記事)。

英語での論文執筆や発表で苦労されている方は多いと思いますし(私も現在オーストラリアにいますが、英語がペラペラになれる気はしません・・・)、英語ができて当たり前だから・・・と諦めてしまった経験がある人はいないでしょうか。その「当たり前」にあえて疑問を投げかける天野さんの論文を読むと、苦労しているのは私だけじゃないんだ、という気づきと、特に最後の考察と結論の文章、英語ネイティブの人たちに訴えかける力強い言葉に、英語を母国語としない世界中の研究者が勇気を貰える気がしています。是非、リンク先の論文にも(英語ですが、DeepLGoogle翻訳など一昔前より飛躍的に向上している技術を活用しつつ)目を通してみてください。(広報委員 上沖)

連載の第一回ではオーストラリアへの異動の経緯を、第二回では私が感じたオーストラリアの研究・生活環境について書かせていただきました。

最終回となる今回は、私がオーストラリアに来てから立ち上げたtranslatEというプロジェクトについて紹介させていただこうと思います。

translatEプロジェクトでは、人によって母語が異なることによって生じるコミュニケーション上の障害、「言語の壁」に注目し、それが生物多様性の保全や、科学全体にどのような影響を及ぼすかを明らかにすること、またその問題を解消していくことを目的としています。詳しくはウェブサイトもご覧ください。

2008年に在外研究のために渡英して、当初は自分の言いたいことが全く英語で表現できなかった経験から、英語の壁の存在は個人的にずっと感じていました。ただし、その英語の壁が生物多様性保全や科学全体に及ぼす影響を意識するようになったのは、2011年頃にLiving Planet Index(LPI)に使われているデータの分布図を見たのがきっかけでした。アフリカのデータ分布が明らかにケニア、タンザニアなど一部の国に偏っていたのです。当時所属していた研究室の学生がこれらの国でのフィールドワークは英語が通じて便利と話していたこともあり、LPIのデータ分布と英語が公用語の国を見比べてみると驚くほど似通っていて、「英語が公用語の国のデータしか使われていない…?」と衝撃を受けました。

そこで生物多様性に関わる複数の国際的なデータベースを用いて、収蔵されているデータの分布と各国の英語話者数の割合を比較すると、やはりどのデータベースでも英語話者数の割合が高い国ほど収蔵されているデータ数も多いことが分かりました(Amano & Sutherland 2013)

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オーストラリア生態学会・国際保全生物学会オセアニア支部合同年次大会での発表
コピーライトマーク Ecological Society of Australia

このパターンが生まれる原因は二つ考えられます。一つは、英語が公用語でない国の方が実際にデータが少ないこと、もう一つは、英語が公用語でない国のデータが国際的に利用されていないこと、です。もちろん実際には両方影響しているのでしょう。ただ日本の研究やデータがしばしば日本語でしか得られず、国際的には使われにくいことを知っていた私としては、後者が少なくとも日本には当てはまることを知っていました。問題はそれが他の国にも当てはまるかでした。

そこで英語以外の言語でそもそもどのくらいの科学的知見が出版されているのか調べてみることにしました。幸い、非常に多くの国籍の研究者と知り合える環境にいたため、ターゲットとした16言語のほとんどについて、知り合いの中から文献検索に協力してくれる人を見つけることができました。フランス語は協力者がすぐには見つからなかった言語の一つで、受け入れ研究者だったビルに頼んだところフランス生態学会の会長(!)を紹介され、「フランス語でconservationは何というのですか?」と聞いたところ、「ええと… conservation… だね。」と返信が返ってきたのは今となっては笑い話です。

その結果、生物多様性保全に関わる文献の約3分の1は英語以外の言語で発表されている可能性が明らかになり、2016年に論文として発表しました(Amano et al 2016)。メディアでの取り上げられ方や研究者コミュニティからの反応に見るこの論文への反響は予想以上に大きく、もっと掘り下げてみる価値のある課題だと感じました。

そこでその後すぐ2017年から、各言語の話者から正式な共同研究者を募って、特定の基準に当てはまる学術論文が各言語でどのくらい存在しているかを明らかにする研究を始めました。当時所属していたグループが主導していたConservation Evidenceプロジェクトで生物多様性保全の対策の効果を科学的に検証した論文を検索・収集していたので、同じプロトコルを用いて、検索を他の16言語に拡張することで、同様の論文が英語以外の言語でどのくらい得られるかを明らかにすることにしました。

さらに2018年には言語の障壁が生物多様性保全に及ぼす影響として、世界規模でのエビデンス集約への影響(英語以外の言語で得られるエビデンスが国際的には利用されない問題)、また各地でのエビデンス利用への影響(英語でしか得られないエビデンスが非英語圏では利用されない問題)、という二つの問題に注目した研究計画をまとめ、獲得したfellowshipで2019年からオーストラリアへ移り、本格的なプロジェクトとしてこれらの課題に取り組むようになりました。

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クイーンズランド大学セントルシアキャンパス

Fellowshipを獲得したことで、これらの研究に集中して取り組むことができ、言語の障壁が生物多様性保全に及ぼす影響について様々な成果を発表することができました。2021年には50人以上の共同研究者との3年以上にわたる共同研究の成果として、英語による保全対策の効果に関するエビデンスが少ない地域や種において、特に英語以外の言語で得られるエビデンスが多いという成果を発表することができました(Amano et al 2021a)。これはすなわち、英語以外で発表されている科学的知見を国際的に有効活用することで、英語だけでは情報が得られない種や地域について保全上重要な情報が手に入るということを示しています。

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クイーンズランド大学セントルシアキャンパス

またNegret et al (2022)では、鳥類の絶滅危惧種では分布域内で特に多くの言語が使われていること、Chowdhury et al (2022)では、生物多様性保全に関わる文献の発表が英語だけでなく他の多くの言語でも毎年増え続けていることを示しました。どちらの結果も、言語の障壁を克服することが保全において重要であることを示しています。これらを踏まえてAmano et al (2021b)では、科学における様々なタイプの言語の障壁を克服するための解決策を提案しました。また以下の研究はまだプレプリントの段階ですが、英語が公用語でない国における生物多様性に関する報告書で英語以外の言語の文献が重要な役割を果たしていることを示した研究(Amano et al 2022a)、また日本を含む世界8か国、908人の環境科学者を対象とした調査によって、英語を母語としない研究者が被る不利益を定量化した研究(Amano et al 2022b)も発表することができました。博士課程の学生やポスドクと行っている研究も複数進行中です。

これら一連のプロジェクトの始まりはほんのちょっとした思いつきだったのですが、その後継続して取り組むことで、言語の壁という切り口から、エビデンスに基づいた保全や意思決定、科学コミュニケーション、学術界における不平等という問題など、様々なトピックに取り組みを発展させてくることができました。結果論ではありますが、その過程では、英国でのポスドク時代にあった、突拍子もないアイディアを実行に移す時間的・金銭的・精神的余裕、またこの研究でフェローシップが獲得できたことが示しているように、型にはまらない研究でも評価される環境が、それぞれ重要な役割を果たしていたと思います。また自分が重要だと思ったことに継続して取り組み、科学コミュニティ内外で機を見てその重要性を主張し続けることも、Conservation Evidenceプロジェクトを始め、様々な研究者の取り組みから学び、実行していることです。

今後もさらにプロジェクトを発展させ、生物多様性保全のために世界中で得られたあらゆる科学的知見が、言語や社会経済的背景に関わらず誰にでも利用できるような仕組みを実現していくために、少しでも貢献していければと思っています。

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Centre for Biodiversity and Conservation Scienceのオフィス

translatEプロジェクト、及びクイーンズランド大学における私の研究グループKaizen Conservation Groupでは、共同研究者やJSPS海外特別研究員、また博士課程の学生として一緒に研究してくれる方を常に受け付けています。私達のグループはCentre for Biodiversity and Conservation Scienceという生物多様性保全を目標とした国際的にも著名な研究センターに属しており、様々な専門を持つ多くの研究者と交流することができます。興味のある方は是非ご一報ください。

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ヨーロッパの大学院に留学してみた ③ドイツでの生活

前回「②フランスでの生活」はこちら

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冬のブロッケン鉄道。蒸気機関車でブロッケン山を駆け上がる。

ドイツに来た瞬間のことは今でもよく覚えている。
フランスから来る鉄道との乗り換え駅であるシュトゥットガルト。12月下旬の凍てつく空気のなか、鉄道のホームで1時間半ほど待っていた私の身体は芯まで冷え切っていた。大荷物を抱えて高速列車ICEに乗り込み、その席に座った瞬間、もわもわした生地の座席にふわっと包み込まれた感じがした。「ああ私は帰ってきたんだ」とかいう妙に格好つけた台詞とともに不思議な安心感を味わった。(たぶん座席が温かかっただけ)

順調な滑り出しで、私のドイツ生活は始まった。マックスプランク鳥類学研究所は自然のなかにぽつんと建物が落ちてきたのかと思うほど周りが緑にかこまれている。自然好きには素晴らしいロケーションだった。そこで研究している人たちはみな温かく、太田さんの記事でも以前言及されていたように皆が英語で話してくれるので、意思疎通がとりやすくて安心して生活できた。

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研究室のメンバーでバードソンに参加。朝から晩まで鳥を探して自転車で走り回った。

しかし研究はなかなか思い通りにいかなかった。日本の研究室で相手にしていたのは動物の標本や分子実験道具、コンピューターの画面だった。しかし行動を知りたいと思ったら対象になるのは生きている動物だ。計画通り・予想通りにいかないことが多くて、研究の締切が決まっている身としては焦る。先生たちに何度「彼らは機械じゃないから、心配しすぎないで」と言われたことだろう。

そしてコロナ禍の留学で一番つらいこと、孤独が降りかかってきた。日本との時差は夏時間で7時間、冬の時間で8時間ある。こちらが仕事終わりにさぁ家族や友達と話したいとおもっても向こうは深夜である。悲しいことがあっても、嬉しいことがあっても、共有できる人がいなくてため込んでしまう。そして現地の友達も多くない上に皆多忙だ。研究所は大学ではないから修士の学生が自分を除いて一人もおらず、6月までパーティーなんてひとつもなかったので人と知り合う機会がない。感染予防のために研究室の部屋も個室を与えてもらっているので、過ごそうと思えば一度も言葉を発しなくても一日過ごせてしまう。話す人がいないので言語も上達しない。研究のディスカッションが思うようにできない。恥ずかしい。悔しい。だんだんヒトと話すのが怖くなって、そのままディプレッションのなかへずぶずぶと。残る話し相手は実験対象のカナリアたちだけだ。

そんな私をみてフランス人の先輩がはっきりと一言。「ハナ、土日は休みなさい!」

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研究室の先輩と初めてのアルプス登山。私は滑って転んで帰りは半泣きだった。

先輩のアドバイスに従って、週末は山にいったり、サイクリングしてみたり、電車で少し遠い街に出かけてみたりと頭をすっからかんにして遊ぶようになった。小さいときから運動神経のかけらもない私だが、出かけるための体力をつけようと思って筋トレと運動も少し始めてみた。鳥を見に行く体力もついて、ヨーロッパの食事でだらしなくなっていたお腹も健康的になり、ストレス発散もできて、一石二鳥どころではない。そうして充実した週末を過ごしてから月曜日を迎えると、びっくりするくらい気持ちよく、さあ頑張ろう!という気になれる。お昼にキッチンで人と会えば、週末の楽しかったことで盛り上がれるので話題にも困らず自然に会話ができてありがたい。

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ローテンブルクの可愛らしい街並み。電車と自転車で行くのに6時間かかったが、その価値がある街だった。実はシュバシコウの巣が写っている。
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ドイツとオーストリアの国境からアルプスを望む。

フランス人の先輩曰く「フランスは世界で一番時間を効率良くつかう国」らしい。休むときはしっかり休み、働く時は時間を決めて集中して取り組む。このやり方は私もとても気に入った。先輩に、おかげでとても調子がいいですと伝えると、「ハナが良い働き方を学んでくれて嬉しい」とにっこり笑って言ってくれた。

Netflixのドラマ「エミリー、パリへ行く」に出てくるフランス人が言った “I think the Americans have the wrong balance. You live to work. We work to live.” という言葉にとても共感した。自分の生活と研究とは別のところにあるという認識で過ごすことが大事なように思う。

あんなにフランスから脱出したかったのに、結局私にはフランスが必要らしい。

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オーストラリアの研究環境について

皆さんこんにちは。クイーンズランド大学の天野と申します。

前回は私がイギリスからオーストラリアへ異動した経緯について紹介させていただきました。今回はクイーンズランド大学の研究環境やブリスベンの生活環境について少し書かせていただこうと思います。

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クイーンズランド大学

まず初めにクイーンズランド大学を選んだ理由についてです。私が現在受給しているFuture Fellowshipは受け入れ先を自分で決めることができます。オーストラリアにはGroup of Eightと呼ばれる研究で有力な大学が主要都市に存在しており、受け入れ先としてメルボルンやシドニー等、他の都市にある大学も候補として考えました。ただクイーンズランド大学にはCentre for Biodiversity and Conservation Science(CBCS)という世界的にも有数の保全科学の研究拠点があり、魅力を感じていました。また同大学のリチャード・フラー教授のグループからケンブリッジにも度々学生等が訪ねてきており、他の大学より親近感があったということも影響していたと思います。ブリスベンという都市については実はほとんど下調べはしませんでした。ただ、それなりの規模の都市で医療や教育、日本食材調達などの面でも困ることもなさそうでしたし、家族からも賛同を得たのでクイーンズランド大学に決めることとしました。

2019年3月、日本への一時帰国を経て、成田からブリスベン行きの便に乗りました。ちなみに空港では当時オーストラリアのクラブチームに所属しており試合で日本に来ていたサッカーの本田圭佑選手に遭遇し、当時サッカーをしていた娘が写真を撮ってもらうという幸運にも恵まれました!幸先がいいなと思ったのを覚えています。

ブリスベン空港に下降する機内からはマングローブ林が見えました。飛行機から降りると湿った空気が体にまとわりつき、夜に街を歩くと頭上をオオコウモリが悠々と舞っています。イギリスの気候に慣れた身としては亜熱帯の雰囲気がとても新鮮でした。

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近くの公園にあるオオコウモリのねぐら。夕方になると一斉に採餌場所へ飛び立っていく。

ブリスベンのあるクイーンズランド州はSunshine stateという愛称がつけられているように、年間の晴天率が非常に高いことで知られています。晴天率が低いイギリスと比較して、これが初めに衝撃を受けた点でした。渡豪間もない頃は人に会うたびに「天気がいいですね!」と言っていたのを覚えています。渡豪1年後に始まることになるコロナ禍を、小さい子供二人の育児をしながら乗り切っていくうえで、いつも見上げれば青く美しいブリスベンの空には正直救われたと思っています。同時に当時はそれほど気にしていなかったのですが、イギリスでは天候に由来するストレスを受けていたのかもしれないなと感じました。

ケンブリッジに比較して大学や街で見かける東アジア人が非常に多いことにも驚きました。ケンブリッジを含むイギリスでも中国など東アジアからの留学生は増えていると思いますし、ロンドンのような大都市ではアジア系を含むあらゆる人種の住民がいます。ただ私が所属していた当時、約500人の保全科学者が集っていたCambridge Conservation Initiative(CCI)では東アジア人は時折見かける程度でした。自分の所属するコミュニティに民族・文化的に近い人がいるだけで何となく気が楽になるということも新しい発見でした。

大学構内でもかつ丼、ラーメン、海苔巻き等が売られているように、ケンブリッジ滞在時に比較して、日本食を手に入れることもかなり容易になりました。一方で、スーパーで売られている魚の種類がケンブリッジでよりも少なかったことは想定外でした。主に売られているのはバラマンディと呼ばれるスズキに近い種と養殖サーモンで、その他は魚屋でないとなかなか手に入らず、もうちょっと何とかならないものかといつも思っています。

大学に着任し、居室をもらって様々な人に挨拶した後は、しばらくの間、研究プロジェクトを立ち上げるために四苦八苦しました。予算管理システムの理解や発注の仕方等は待っていても誰も教えてくれないので、様々な部署に出向いて教えを請わなければなりません。プロジェクトのリサーチアシスタントや博士課程の学生募集や採用の手続きにも相当の時間が取られました。Fellowshipで雇用されている間は講義負担は少ないのですが、それでも初年度は50分×8コマの講義をゼロから作らなければならず、準備にほぼ2か月を費やしました。

採用が決まった博士課程の学生は、渡豪予定直前に始まったコロナ禍の影響で、結局ブリスベンに来ることができたのは予定の2年後となりました。その結果しばらく指導する学生がいない状態が続きました。ただこの期間は自分の研究を進めながら研究室の運営について学ぶいい機会だったと思います。Fellowship申請時にもサポートしてもらったフラー教授から、しばらくは協同でラボミーティングを行わないかと声をかけてもらい、彼のグループの定期ミーティングに参加するようになりました。フラー教授は渡り鳥の保全や都市緑地が心身の健康にもたらす恩恵等の研究で世界的に有名ですが、研究指導はもちろん、メンバーのメンタルヘルスにまできめ細かな気配りをしていることがすぐに分かりました。またクイーンズランド大学では各学生が複数の指導教官をもつことになっています。フラー教授が指導している学生の副指導教官となることで、具体的なノウハウも学んでいくことができました。幸いにも渡豪3年目の2021年あたりから今年にかけては他にも2人の博士課程学生、1人の学部生を主任指導教官として指導することとなりました。

大学では生物科学部に籍を置く一方、学部を超えたセンターとして、生物多様性保全に関わる研究を行う34名の教員、15名のポスドク、106名の学生から構成されるCBCSにも所属しています。ケンブリッジで所属していたCCIほどの規模ではありませんが、やはり一つの目標を共有しつつ多様な専門やアプローチを用いて研究を行っている人材が集まっていることには、共同研究の構築や情報・経験の共有、外から人材を呼び込むための相乗効果等、利点は多いと感じています。

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家のベランダによくやってくるワライカワセミ

オーストラリアという国の特徴としては、まず良くも悪くも他国から地理的に孤立していることが挙げられます。ヨーロッパ諸国と日常的に人材の行き来があったイギリスに比較すると、やはり他国との人の行き来には一つ壁があるように感じます。オーストラリアの多くの大学は国外からの留学生を受け入れることで成り立っている面もあり、CBCSもアジアや南米からの留学生が多く国際色豊かです。ただ海外からポスドクや在外研究を行うビジターなどが来ることは少ないと感じています(コロナ禍の影響もあると思いますが)。コロナ禍ではリモートでの学会参加などが進み、地理的な障壁の影響は小さくなりましたが、ヨーロッパやアメリカと時差が大きいことも研究交流を阻害する壁の一つとなります。一方、日本とはほぼ時差がなく、二国間での研究助成金等も多いので、今後日本との研究交流は増えていきそうだと感じています。

研究分野としては、海洋生物学の存在感が抜きんでているのには驚きました。これはもちろんグレートバリアリーフを始めとした素晴らしいフィールドに恵まれているため、国内外から海洋生物学を志す人材が集まってくることに由来すると考えられます。ハンバーガーショップで買ったお子様セットに様々な職業の人形がついてくる付録があったのですが、学校の先生、美術家、ライフセーバー(これもオーストラリアらしい!)、科学者などと並んで、「海洋生物学者」だけ独立に人形があったのには驚きました!

最後に、オーストラリアに来て何よりも特徴的だと感じたのは、国が移民で支えられているという強い意識です。イギリスには計9年近く住みましたが、最後まで自分達はあくまで移民で国民との間には埋められない溝があるように感じていました。一方、オーストラリアは移民の割合も高く(豪:29.8%; 英:14.4%; 日:2.2%)、多数派であるイギリス系の人々も元をたどれば移民であるという事情からか、移民も一緒に国を作っていく社会の一員であるという意識をごく自然と持ちやすいように思います。そのため民族的なマイノリティーという立場で、子供の教育も含めて生活を営んでいくのにとても適した国だと感じています。

長女が通う小学校は特に民族的多様性が高く、約三分の一の児童がオーストラリア国外の出身で、その国籍は50か国以上に及びます。そんな学校に長女が通い始めてすぐに、印象に残ることがありました。児童が集まる朝礼に親も参加できるのですが、そこでまず学校の目標の一つとして教えられていたのが、平等・多様性の推進でした。また多様性を尊重するための手段として、人と考えが違った場合に折り合いをつける具体的な方法まで1年生に教えているのです。自分が受けた学校教育とは国も時代もまるで共通点がないため、子供が学校や保育園で学んでくることは私にとってもどれも新鮮で、今後一緒に新しい学校教育を体験できることを楽しみにしています。

終わりの見えないコロナ禍、益々顕在化する気候変動の影響、止まらない生物多様性の損失。周知の通り時代は混沌としています。そんな中、娘達は友人達と毎日新しいことを学んでスポンジのように吸収しながら、青空の下ではつらつと遊んでいます。そんな姿を見ていると、希望は本当にここにあるんだなと心の底から実感することができるのです。毎日そのことに救われるような思いがしています。

話は少しそれましたが、次回は私が現在主導しているプロジェクトについて紹介して、この短い連載を終わりとしたいと思います。

(次回に続く)
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イギリスからオーストラリアへの異動について

海外での研究シリーズとして、オーストラリアで研究されている天野達也さんの記事を数回に分けてお届けします。天野さんは鳥学通信で以前「アマノノニッキ in ケンブリッジ」を連載されており(その1その2 | その3)、その続編となります。お楽しみに。(広報委員 上沖)
皆さんこんにちは。オーストラリア・クイーンズランド大学の天野と申します。2019年3月にイギリスのケンブリッジ大学からこちらに異動して、既に3年以上が経過しました。そのうち2年半はコロナ禍ということもあって、何もかもバタバタしていてオーストラリアへの異動についてどこかでお話するような機会もありませんでした。
ところが先日、突然ブリスベンに現れた上沖さんから鳥学通信への寄稿のお話をいただきましたので、回想する形になってしまいますが、異動の経緯やオーストラリアの研究環境について、また現在のプロジェクトなどについて、数回に分けてお伝えできればと思います。
まず今回は、なぜオーストラリアに異動することにしたか、についてです。
これはもちろん様々な要因が組み合わさった結果なのですが、大きく分けて二つの理由がありました。
一つ目は、ケンブリッジに8年間滞在し、そろそろ環境を変えるタイミングなのかなと感じたことにあります。
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去る直前のケンブリッジの様子
ケンブリッジには2008年から一年間を在外研究として、また2011年から2019年まではJSPSの海外特別研究員European CommissionのMarie-Curie Fellowship、さらに他2つのポスドクという立場で滞在していました。その間本当に素晴らしい環境で研究ができ、家族共々ケンブリッジという美しい街のことを、離れて何年も経った今となってもとても気に入っています。ケンブリッジでは研究職も比較的多くあるので、選り好みしなければもっと長く滞在することができたかもしれません。
ただ一方で、自分の研究も続けつつそろそろ研究室主宰者(PI)になるという次のステージに移りたいとも思い始めていました。そこでNERC FellowshipRoyal Society Fellowshipという制度にも2回ずつ応募しましたが、採用されませんでした。ケンブリッジ大学では他に関連分野でのPIの応募は滞在中皆無で、PIになるためにはイギリスの他大学に移るか、他国に移るかのどちらかしか選択肢はありません。
そこでケンブリッジ滞在後期には日本でのポジションにもいくつか応募しました。ケンブリッジには世界各国から学生やearly-career researcher(ECR)が集まってきており、その多くは何年かすると自国でポジションを得て帰って行きます。そんな姿を見ていて、自分もまた日本で研究したいという意欲が高まった時期があったのですが、結果としてご縁はありませんでした。
一方で、ケンブリッジにとても愛着があったので、イギリスの他大学でのポジションへの応募にはなかなか踏ん切りがつきませんでした。
もう一つの理由としては、環境を大きく変えてでも追及してみたいアイディアが出てきたという点があります。
ケンブリッジではウィリアム・サザーランド教授という本当に素晴らしい共同研究者且つメンターと多くの時間を過ごすことができました。特に彼が始めたConservation Evidenceという一大プロジェクトの成長を計10年程も間近で見ることができたことは、私の研究者人生にとってのとてつもなく大きな財産です。
まだ彼のプロジェクトに1人か2人しかメンバーがいなかった時期に、彼の自宅の近くを散歩しながら、なぜこのプロジェクトを始めたのか尋ねたことがありました。彼の答えは、「ニック・ディビスはカッコー、ティム・クラットンブロックであればミーアキャット(共にケンブリッジ大の著名な教授)、といったように多くの研究者にはその人の強みというものがある。自分もそういったものが欲しかった。」といったものでした。その時はそんなものかと思ったのですが、その後10年をかけて、一つのアイディアに多くの人を巻き込んで、本当にコミュニティや社会に変化をもたらしていく姿を見て、プロジェクトというものはこうやって形にしていくんだなと実感したものです。
この時の会話がその後もずっと頭に残っていて、自分の強みとは、自分が10年や20年かけて形にしていきたいものとは何だろうと自問する日々が続きました。
当時私は世界規模の水鳥モニタリングデータを解析することで、生物多様性の変化を明らかにし、その駆動要因を特定するという研究に取り組んでいました。それ自体は大変重要な課題であり、自分としてもやりがいを持って取り組んでいましたし、今でも続けています。ただ一方で似たような研究を行っている人も多く、正直なところ自分がやらなくてもこの分野の研究は何の問題もなく進んでいくだろうなと感じていました。あのグループがこんな論文を出した、こちらのグループはこの雑誌で発表した、といったような目で自分が周囲を見てしまうことにも、自分自身が周囲からそのように見られることにも嫌気がさしていました。そんなこともあって、世界中で誰もやっていない重要な課題、そして自分でないとできないことに取り組みたいと強く感じるようになりました。
幸いなことにその「自分でないとできないこと」の目星はある程度ついていたのです。2016年に言葉の壁が科学に及ぼす影響について論じた論文を発表していたのですが、ちょっとした思いつきで始めたこの論文に対して、周囲から大きな反響があることは感じていました。この論文の延長として趣味的に始めた作業を核として、それなりの研究計画をまとめることもできました。その研究計画をサザーランド氏や同僚に話した感触も上々でした。
とすれば、あとはその計画をどう実行するかだけです。するとちょうどその頃、オーストラリアでFuture Fellowshipというmid-career researcher向けのフェローシップがあることを共同研究者から聞いていました。一般にフェローシップとは研究に重点を置きながら学生の指導なども行うPIポジションで、制度の特性も私の意図によく合致しています。ただ多くのフェローシップはECR向けで、学位取得から10年以上経過していた私が応募できるものはほぼなく、学位取得から5-15年の人を対象とするオーストラリアのFuture Fellowshipは珍しい例と言えます。余談ですが、私のように学位取得後何年か経ってから海外に出る(私の場合は5年後でした)ことの利点として、経験や技術、アプローチなどがある程度確立できていることがある一方、ECR向けのフェローシップのように応募できる制度が後々限られてくるという点は欠点として挙げられると思います。
妻とも相談し、英語圏でイギリスと文化的にも比較的近いオーストラリアであれば、医療や育児、治安の面でも安心だろうという結論になりました。
いずれにしても、相当の時間と労力をかけて渾身の申請書を書き上げ、Future Fellowshipに応募しました。数か月経って、採用が発表された日のことは今でもよく覚えています。イギリスにしては珍しく暑く寝苦しい夜から目覚めた朝、受け入れ先となったクイーンズランド大学・生物科学部の学部長と、後に同僚となる何人かの研究者から祝福のメールがあり、また大学のニュースサイトでも他の採用者と共に紹介されていました。
自分の提案した研究計画が評価されたという喜び、新しい国や環境に向かうという興奮と共に、長らく滞在したケンブリッジとイギリスを本当に離れるんだなという寂しさが同時にこみ上げてきました。ただやはり当時は、とても気に入っていたケンブリッジという環境を離れてでも、新たなステージでのチャレンジをしなければ進歩がないという危機感を抱いていました。そのため、何よりそのチャンスを、しかも言葉の壁という突拍子もない課題に対して与えてくれたAustralian Research Councilに感謝する気持ちが強かったのを覚えています。
既に保育園で友達もできていた当時3歳の娘が引っ越しにどう反応するか心配でしたが、ビーチやカンガルー、コアラ、クジラが出てくるプロモーション動画を見せ、この国に行くんだよと伝えると、想像以上にあっさりと「いいね!」の一言をもらい安心しました。
残されたケンブリッジでの日々は本当に貴重な時間でした。サザーランド氏を始め多くの人たちが新しい門出を祝福すると同時に私が去ることを残念がってくれましたし、あらゆる道端や建物に様々な思い出が染みついているこの小さく美しい街に別れを告げるのは、本当に寂しいものでした。
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送別会の様子
いつものように寒い2月のある日、機内から後ろへと流れていく”Heathrow”の文字を見納めとして、日本経由でオーストラリアはブリスベンへと向かいました。
今回のところはここまでとし、次の原稿ではオーストラリアでの研究環境について書きたいと思います。
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ヨーロッパの大学院に留学してみた ②フランスでの生活

前回「①留学のきっかけ」 はこちら

フランスでの生活を一言で表すなら、暗黒時代だ。中二病みたいなことを言っていると思うがウルトラスーパーダークナイトメアという気持ちで日々を過ごしていた。
さて、すべてがわからない。文字通り、すべてである。スーパーの買い物の仕方、洗濯機の使い方、交通機関の乗り方。銀行口座を作ろうにも予約の取り方がわからないし、ようやく銀行にたどり着いたと思えば銀行のドアは閉まっていて入れない(後に、ブザーを押せば開けてもらえることが判明した)。とにかく本当に些細なことで何度も躓いて何一つ予定通りに進まないので自分に嫌気がさした。

授業が始まると強いフレンチアクセントの英語に、そしてグループワークに苦しんだ。毎週の成績は最低ライン。自分だけなら良いが、グループでは私の拙い英語のせいで皆の足を引っ張っているのがとても苦痛だった。クラスメートは7割方フランス人で、留学生もヨーロッパ圏から来た英語が超堪能な優秀な人ばかり。皆母国語で講師とディスカッションができたし、そうでなくても英語で素晴らしいプレゼンテーションやエッセイを披露した。自分にはどちらもできなかった。

カルチャーショックにも苦しんだ。道路の状況や食品管理など、潔癖症の日本人が見たら気が狂いそうな違いだった。複数人の会話では他人の話に割り込むくらいの勢いで話さないと、何時間たっても発言の機会は一向に回ってこない。そして彼らはお酒をよく飲んだ。授業は9時から18時まであってそのあと課題をこなしていたら一日が終わるはずなのに、クラスメートは毎日のように夜の街に繰り出していた。その余裕とお金は一体どこから出てくるのか!

私は黒い虫がたくさん出るかつ北向きという条件の悪い部屋に住んでいたことも重なって、日照時間が短くなるとともに私のライフも削られていった。

1.5週間くらいの長期休暇があったので、気分転換に地中海沿いの街へ行ってみた。波の音を聞きながら紺碧に透き通った地中海と空を眺めていると、心が洗われる気がした。もうずっと一生このまま海を見ているだけでもよい。夢心地な地中海の誘惑であった。しかし目が覚めると、今度は勉強や課題をしていない自分の状況により焦ってしまって結局逆効果だった。

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(写真左)コートダジュールの名にふさわしい青(写真右)バルセロナではオキナインコが大繁殖していた

 

そんな私の精神に重くのしかかってきたのはインターンシップの受入先探しだった。私のコースでは、修了要件として、世界中どこの生物音響学の研究室でもよいから6か月間インターンとして働いてそこで修士論文を書いてきなさい、となっていた。しかし、まずもってどうやって受入れ先を探せば良いかもわからない。面白そうだと思った研究者に必死なメールを送ってみたが、研究資金も業績もない学生を誰が受け入れてくれるというのか。7割方無視されるか断られた。前向きな返事をくださった先生方も数人いたが、はっきりとした返事はまだもらえていなかった。一方で周りのクラスメートは南アフリカやらカリフォルニアやらスペインやらに行く準備をし始めていて、私は焦りを感じていた。

そこで私を救ってくださったのはまたしても相馬先生だった。先生の紹介のおかげで運良く、私はドイツのマックスプランク鳥類学研究所にインターン先を見つけることができた。まるで空から垂れてきた蜘蛛の糸であった。また私は相馬先生のお世話になってしまった。自分の力なさに呆れた。しかし、どうにもならない時には、助けを求めれることも大事だ。このご恩はこれから研究を頑張ってお返ししなければならない。

そして12月のどんよりしたフランスに、救世主のごとく颯爽と現れたのは、休暇にいらしていた太田菜央(マックスプランク鳥類学研究所)さん。同じ研究分野の先輩と母国語で話せるというのはなんとありがたいことか。この時私は数か月ぶりに対面で日本語を話したので、非常に変な感じがした。内容が同じでも、英語で話すのと日本語で話すのとでは得られる充足感が全く違う。思っていることを思うままの表現を用いて吐き出せる。自分の意図した話のオチのところで相手も笑ってくれる。なんて話しやすいんだ!太田さんの優しい人柄も大いに関係していると思うが、会話のノリというか、同じ文化のバックグラウンドをもっているというのは会話において意外と重要な要素かもしれない。太田さんとはドイツでまた会いましょうということでその場を別れた。

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(写真右)クリスマス一色のコルマールの街(写真左)クリスマスツリーのなかにいたイエスズメ。

 

クリスマス直前、五藤を乗せた列車はイルミネーションの輝くサンテティエンヌの街を後にした。彼女はフランスの大学での授業の単位を取り終えたので、ドイツでのインターンシップに向かうのだ。新しい環境に不安そうな顔をしているかのように見えるが、どうやら頭の中はキラキラふわふわしたものでいっぱいだ。どうせクリスマスマーケットのことしか考えていないのだろう。全くのんきなことである。

だがもうこれでウルトラスーパーダークナイトメアにはAdieu!

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ヨーロッパの大学院に留学してみた ①留学のきっかけ

コロナやウクライナ侵攻の影響で海外渡航しにくい情勢が続いていますが、そうした中でも特に若い世代には外の世界に目を向けて、将来の可能性を広げて欲しいと感じています。前回の太田菜央さんの記事に続き、同じくヨーロッパにて留学中の五藤花さんから留学体験記が届きました。実際に海外で活躍する方の様子を知ることで、今後の進路を考えている方々への刺激となれば幸いです。第1回目は「留学のきっかけ」で、月1程度のシリーズとして数回に分けて掲載予定です。お楽しみに。(広報委員 上沖)
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私の大学があるサンテティエンヌの街並み。これは街のうち綺麗な一部の切り抜きである。

 

2021年9月1日。フランスの玄関口、パリ・シャルルドゴール空港は、いつも通り大荷物を抱えた外国人でごった返していた。トリコロールを背負ったフランスのオリンピック・パラリンピック選手団は迎えの人々とビズを交わしている。そのなかに、周りより明らかに小さい日本人がぽつんと立っていた。名前は五藤花。彼女はこれからフランスの大学院に通って、生物音響学の修士号を取るのだ。さぞかし夢と希望でいっぱいに輝いているであろうと思われたその顔は、汗と涙でぐちゃぐちゃであった。

時はさかのぼって2021年2月。雪の降りつもる北海道大学札幌キャンパス。吹雪に耐え聳え立つ理学部棟の一室で、私は相馬先生と向かい合って座っていた。当時自分の卒業研究の限界にショックを受け、今後の方向性を見失っていた私は、高校生のときから憧れ尊敬していた相馬先生を頼った。先生ならきっと何かよいアドバイスをくれるだろうと。

「五藤さん留学とか興味ある?」
「あります!」(食い気味に)
「ちょうど数日前メーリングリストで回ってきたところで、フランスで生物音響学のコースが今年から始まるみたい」

やはり先生は私に希望の光を投げかけてくださった。研究室に帰って、教えてもらった募集要項を見ているうちに、体中の血が湧きたつような感覚に襲われた。コースの名前は「International Master of Bioacoustics」。Bio(生物)acoustics(音響学)という名前だけあって、鳥の歌の講義はもちろん、爬虫類、哺乳類、昆虫、両生類、魚、ありとあらゆる動物が作り出す音についての講義が毎日開かれる。使用言語は英語で、講師はフランスだけでなく欧米諸国のあらゆるところからやってくるようだ。講義だけではない。実習も豊富で、毎日午後は実際に音響解析ソフトに触れてみたり、なんと一週間もスイス国境の山に行って野外実習をさせてもらえたりするらしい。

美しい写真を添えて描かれる魅力的なプログラムに、私は一気に魅了された。その上授業料は日本の国立大の5分の1だった。フランスに詳しい知人に聞いてみると、大学が位置するサンテティエンヌは比較的治安の良い街らしいし、生活費もパリほど高くないようだ。

コロナがどうなるか不安ではあったが、知人に背中を押され、家族に了承をとってアプライすることにした。生まれて初めてCV(履歴書)とapplication letterを書くことになった。それはアルバイトのために書いたことのある履歴書や志望動機とは全く違った。書き方はネットや本を参考に、たくさんの人に添削してもらって、研究業績もなければ大した英語力や成績の証明もないところを、未来のポテンシャルと情熱で補うようにしてなんとか書き上げた。ところでこれは後日談だが、私がフランスに行くと言い出したときは、あまりの唐突さに誰も私が本気だと思っていなかったらしい。勧めてくれた相馬先生でさえ私がアプライしたことに驚いていた。

アプライから2か月ほど過ぎた5月末、ようやく合否通知のメールが来た。長文の英語に目が滑った。そしてやっと意味を飲み込んだ時、北大のセイコーマートで烏龍茶を飲んでいた私は、驚きと興奮のあまり危うく持っているものをこぼしかけた。

その時から怒涛のように日々が過ぎ去った。授業が始まるのは9月上旬だ。あと3か月しかない。切れていたパスポートの申請、入学書類のやり取り、フランスのビザの申請、東京のフランス大使館での面接、フランスでの住居探し、北大の休学届、引っ越しの準備やワクチン接種と証明書の準備など、やったことを挙げればきりがない。ましてや、やり取りは慣れない英語やフランス語がほとんどである。その間も授業や研究は並行していたので日々頭の中はこんがらがり、身体的にも疲労困憊であった。

しかしこんなのは今の私にはお茶の子さいさいだ。全部日本でできたのだから。

そして9月、パリの空港で私は途方に暮れていた。飛行機は2時間近く遅れ、空港のWi-Fiはつながらず、コロナの陰性証明が必要だと言われて空港内で大荷物を振り回しながらあたふた駆け回り、やっと鉄道駅に着いたと思えば予約していた高速列車を2回も逃し、数万円(学生にはかなりの金額だ)を無駄にしたうえ助けてくれる人は皆無であった。英語もなんとか通じるが、たどたどしいフランス語には誰もまともに取り合ってくれない。

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空港の鉄道駅。大勢の旅客がマスクをして、大荷物両手に改札へ向かう

 

そしてこんなのはまだ序の口だった。それはそれは大変なフランスでの生活が、私を待ち受けていた。

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ドイツの鳥類学研究所での研究生活(後編:ドイツでの暮らし)

太田菜央(マックスプランク鳥類学研究所)

(前編 マックスプランク鳥類学研究所の研究環境 はこちら)

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たまに見かけると嬉しい小鳥、アオガラとゴシキヒワ

ドイツでの暮らし

南ドイツは北海道より少し緯度が高いところに位置していて、気候も北海道ととてもよく似ています。ただし雪はかなり少なく、たまに地面がうっすら覆われる時期がある程度です。私は長らく札幌に住んでいたので寒さに関してはむしろ楽になったくらいなのですが、新鮮だったのは夜の短さでしょうか。朝は8時を過ぎても暗く、16時には日が沈みます。個人的には家でじっとしていることを地球がオフィシャルに認めてくれている感じがして嫌いではないのですが、日光不足で気分が沈みがちになるという弊害が出る人も多いようです。逆に夏は20時を過ぎても明るく、湖のそばのビアガーデンでビールを楽しむのが南ドイツの定番です。

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異様に気合いが入っているボンの自然史博物館の剥製たち

 

ヨーロッパで暮らす醍醐味は何と言っても、陸続きの土地で色々な国の色々な景色・文化に触れられることかと思います。日本育ちの身からすると陸路で国境を超えるという行為がまず面白いですし、隣り合った土地で言葉も文化もガラリと変わってしまうのが不思議です。博物館や宗教施設は豪華で歴史のあるものが多く、土地柄が垣間見える瞬間も楽しいです。ドイツは剥製のクオリティが驚くほど高い自然史博物館が多く、周囲の環境も含めた生態描写までこだわって作られていてつい見入ってしまいます。定期的な無料開館日や若い人のための割引制度なども充実しており、文化的施設と市民の距離がとても近いなと感じます。

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鳥好きにおすすめ、マルセイユの大聖堂。メインのモザイク画はたくさんの鳥に囲まれた船がモチーフで、いかにも港町らしい祈りのメッセージが伝わってきます。なんと文鳥もいる!

 

私は研究上の成り行きでドイツに来ることになって、実はそれまで海外に行くなどと自発的には全く思う機会がなく生きてきたのですが、現在自分でもびっくりするほど楽しく過ごしています。社交好きの人にはがっかりされる意見かもしれませんが、ちょうど良くよそ者でいられることが非常に快適です。海外に出るとか好きな研究をするというストーリーは、個人のモチベーションや能力といったものをベースに語られがちですが、色々な人と会って話すうちにそれって大して信用ならないなと思うようになりました。海外にいる日本人の方の背景を聞いてみると、子どもの頃に海外に行った経験があるとか、親や周りの人の仕事が海外と関わりのあるものだったというパターンが本当に多いです。そういう背景があることはとても素敵だなと思う一方、「自分にはとてもそんな…」と思ってしまう人との差は小さなきっかけの有無に過ぎないようにも感じています。生まれや育ちで自然に作られる流れをかき乱して、私のように海外に行く発想などなかった人間が色々な仕組みや人からの助けを借りて気づけばヨーロッパで研究生活を送っている、という事態が起こるのは、現代社会のなかなか面白くて良いところだと思います。

興味のある研究室や施設が海外にあるけれど自分の能力に自信が持てないという方は、一旦自分の経験や感覚を信じすぎるのはやめてとりあえず何か行動してみる、既存の仕組みがあれば利用してみる、ということをおすすめしたいです。そういった予想外の展開の先にこそ、何か楽しい発見が待ち受けているかもしれません。

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ドイツの鳥類学研究所での研究生活(前編:マックスプランク鳥類学研究所の研究環境)

太田菜央(マックスプランク鳥類学研究所)
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冬のマックスプランク入り口

こんにちは。ドイツでポスドクをしている太田菜央と申します。私は今、Max Planck Institute for Ornithology(マックスプランク鳥類学研究所)という、その名の通り鳥類学研究のために作られた施設で小鳥の求愛ダンスの研究をしています。今回の記事では、マックスプランク鳥類学研究所がどういう研究施設なのか?ということと、ドイツでの暮らしについて紹介したいと思います。

私が勤務するマックスプランク鳥類学研究所(以下、省略してマックスプランクと表記します)は、ミュンヘン中心部から公共交通機関でおよそ1時間の郊外に位置しています。まわりは森や牧場に囲まれていて、北海道の風景とよく似ているなと感じます。都会派には少し退屈かもしれませんが、野鳥好き、自然好きには最高のロケーションです。様々な国から学生や研究者が集まっているため基本的に英語しか使わず、ドイツ語を使う機会がほとんどないのは便利でもあり少し残念でもあります。

私が初めてマックスプランクを訪れた際は、とにかくその規模の大きさ、研究環境の充実ぶりに驚かされました。例えば普段の鳥の世話は、専属の獣医さんとケアテイカーがおこなっており、広い禽舎は常に清潔に保たれています。実験の必要に応じて鳥の移動や禽舎の組み替えも臨機応変に対応してくれます。倫理規程も細かく、飼育面積に対して収容して良い鳥の数や、餌の種類、止まり木の量などが厳しく指定されており、とにかく環境エンリッチメントへの配慮に力を入れている印象です。

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研究所内の湖とハイイロガンの親子(初夏)。かのコンラートローレンツもここでハイイロガンの行動研究をおこないました。

マックスプランク鳥類学研究所の研究環境

人間側の福祉も充実しています。学生もポスドク以上の研究者もほとんどは17時を過ぎる頃には帰宅しますし、休暇もしっかり取ります。長時間働いている研究者ももちろんいて、プライベートの時間を尊重することを大前提とした上で、個人の裁量にかなり任されている印象です。子育て中の学生やポスドクが多いのも日本と大きく異なる点でしょうか。私が好きだなと思っているシステムは、毎年お子さんがいる職員を対象に、12月の土日に1日分の託児サービスが無料で受けられるというものです。12月は忙しいだろうから、その日はクリスマスの準備をするか一息つくために使ってね、という趣旨のもので、ヨーロッパらしいかつ優しい文化だなと思います。

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研究所内でのクリスマス持ち寄りパーティの様子(コロナ前)
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コロナ禍に入る前は外部から研究者を招待してのセミナーが毎月開催されて、クリスマスパーティや映画の上映会なども定期的におこなわれていました。現在は一部をオンラインで実施している感じです。そういった場所で交流する研究者の皆さんはこちらが逆に恐縮してしまうレベルで優しくて話しやすい人が多いです。ちなみに研究所内には短期滞在者用のゲストハウスが設置されていて、共同研究やセミナーを実施しやすい環境が整っています。

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ゲストハウスの部屋の写真。部屋ごとに違う鳥の写真が飾られています。私が学生時代に滞在したのは「ノビタキの間」でした。

ここまで良いことばかり紹介してきましたが、研究する上で疑問を感じる側面も一応あります。例えば先ほどお話した通り、鳥のお世話やメンテナンスは基本的にケアテイカー任せなので、動物と接する時間は個人で工夫しない限りは基本的に実験をしている間だけになります。日本の大学で定期的に鳥の世話をしていた時には分からなかったのですが、飼育個体と少し距離が開いて(禽舎はオフィスと別の建物にあります)世話の必要がなくなると、こんなにも動物と接する機会が減ってしまうのだなとこちらに来て実感しています。この状況は研究に集中するのに理にかなっているはずなのですが、行動研究においては結構な機会損失でもあるようにも感じます(これから観察眼を養う必要がある学生は特に)。また新しく実験を始めたい、ちょっと試してみたいことがあるといった場合に、スタッフの人数や規模が大きい分、関係者への周知や実験許可の取得に手間取って行き詰まってしまうこともしばしばです。

とはいえ、やはり全体を見ると科学を推進しようという気概が随所で感じられ、研究者としてここにくることができたのは本当に幸運だったなと思います。私が感心しているのが、多くのジャーナルでオープンアクセス費を全額負担してくれることです。これは私が理解している限りではドイツによる政策のひとつで、マックスプランク以外でも第一著者もしくは責任著者の所属先がドイツの研究機関であれば適用されます。こちらが支払い手続きなどをおこなう必要は一切なく、論文受理後にメールアドレスや所属先の情報から自動的にオープンアクセスが認められます。お金のことを心配せず投稿先が決められるのはとても心強いです。マックスプランクはその規模の割に日本人がそれほどいない印象があり(他の研究所はまた事情が違うのかもしれませんが、例えば鳥類学研究所では現在正式に所属しているのは私1人です)、個人的にはその環境が結構気楽だったりするのですが、もしこの状況が日本での知名度が低さに由来しているのであればもったいないことだとも思います。

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違いを作り出す科学

2017年6月14日
ケンブリッジ大学動物学部
天野達也
「明日、リュックサックを持って海外へ行け」
とは、サッカー選手の本田圭佑氏がテレビ出演した際に、Jリーガーに向けて言ったとされる言葉です。私は直接見てはいないのですが、インターネットによると、「日本にいると分からないことがあるから」という理由がその後に続けられています。
研究者とサッカー選手のようなプロスポーツ選手には、いくつか共通項があるように思います。どちらも自分の能力に頼ってその道を追求していく点、日本でも海外でも活躍する場がある点などです。それではこの「明日、リュックサックを持って海外へ行け」というメッセージは、研究者にもそのまま当てはまるメッセージなのでしょうか?もしそうであればどういった理由があるのでしょうか?
実はこの問いは、私自身も時々日本で意見を求められる内容でもあります。
「やっぱり海外での研究経験は積んだ方がいいでしょうか?」
「海外に行ってどんなことがよかったですか」
等々、聞きたくなる気持ちは私にもよく分かります。誰しも海外での研究経験に何かプラスがありそうだとは思うでしょう。ただ同時に多くの人にとって、直感だけではなかなか海外に行くという決心はつかないかもしれません(直感で決断できる人は明日海外に行ってください)。特殊な言語を話すほぼ単一民族の島国で生まれ育った日本人にとって、海外へ出ていくというのは必然的に大きな挑戦となります。海外に行くとどんないいことがあるのか、それが少しでも分かれば、そんな挑戦をするための後押しになるかもしれません。
とは言うものの、正直なところ私は「海外での研究は以下の**個の利点があるから今すぐに行くべき!」といったような文章を書くことにはかなりためらいがあります。というのも確かに私は現在イギリスという「海外」で生活して研究をしていますが、私の経験はとても限られたものだからです。海外でどんな経験をしてどんな研究ができるかは、地域、国、都市、そして所属機関によって大きく異なるでしょうし、感じることや考えも時が経つにつれて変わっていくでしょう。そんな中で自分の経験と私見を一般化する勇気は私には到底ありません。
しかしながら、まぁそんな固いことは考えずに今自分が考えていることを文章にするのも何かの足しになるかなという気持ちが半分と、鳥学会の広報委員としてほとんど仕事ができていないという個人的な罪滅ぼし半分で、こちらに来て得ることができたと思うものについて、最近感じていることを書きたいと思います。できれば他に海外での研究経験がある方や、または全く経験がない方からもご意見を聞いてみたいとも思います。
イギリスに住むようになってから頻繁に聞くようになったものの、それまではあまり聞きなれなかった英語のフレーズというものが多々あります。そのひとつが
“make a difference”
というフレーズです。直訳すれば、「違いを作り出す」、より正確には、「人や物事に重大な影響を及ぼす」「既存のものを変化させる」「影響を及ぼして改善する」といった意味合いが全て含まれるような、便利なフレーズでもあります。日本語でも、例えば特別な才能をもったサッカー選手のことを、「違いを作ることができる」などと表現することがありますが、この英語フレーズの影響なのではないかと思っています。
私は今、ケンブリッジ大学にあるDavid Attenborough Buildingという生物多様性保全に関わる人々が多数集まっている研究拠点に所属して、保全科学を専門とした研究を行っていますが、この建物の中でもこの“make a difference”というフレーズは頻繁に利用されています。そしてこの短いフレーズに、ここに来てから学んだ大きなことが凝縮されているのではないかと感じているのです。
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David Attenborough Building
少し前の話になりますが、昨年末に“Languages are still a major barrier to global science”という論文を発表しました。この論文のメッセージは、言語が科学、特に生物多様性保全のような環境科学の発展や活用に対して、二つの側面で「障壁」になっているということです。
言うまでもなく英語は今や科学者にとって世界の「共通語」ですが、実際には世界中で英語以外の言語で書かれた学術文献も毎年数多く出版されています。これら「非英語」の学術文献はその言語を理解する人々以外にとって、つまり国際的には、言語の障壁によって「目に見えない」科学的知見として埋もれていることになります。一方で、英語を母語としない人々が科学的知見を(例えば自身が住む地域で行われる保全活動のために)利用したいと考えても、世界の多くの重要な知見が英語で発表されている現状では、やはり言語の障壁がその利用を妨げていると言えるでしょう。この論文には日本語の要旨も付録されていますので、興味を持たれた方はこちらをご一読いただければと思います。
これらの問題は、日本人であれば誰でも当然のように知っている事実だと思います。日本語で発表されている多くの有用な論文は、国際的には陽の当たる機会がなかなかありません。また多くの日本人にとって、英語の文献を読むことは日本語を読むように容易ではありません。こういった問題はもちろん私自身、海外に渡航する前から常々感じていることでありました。しかし、この問題について今回こうやって論文として発表することができたのは、海外に拠点を移したからこそだと思うのです。
そう考える理由のひとつは、単純にこの論文を書くにあたって必要だった情報へのアクセスという側面からです。
この論文では、学術論文の発表数が多い16の言語について、生物多様性保全に関わる論文の出版数と関連した雑誌を調べているのですが、当然のことながらその過程で各言語を母語とする研究者の協力を得ることが不可欠でした。スペイン語やポルトガル語、中国語のみならず、トルコ語やペルシャ語からポーランド語まで、果たして全ての言語の話者がそう簡単に見つかるのだろうかと思っていたのですが、自分でも驚いたことにその多くはこれまで6年間ケンブリッジに滞在していた間に出会った知り合いの中から簡単に見つけることができたのです。ポルトガルやメキシコ、コロンビアから来ていた学生、解析の相談にのったドイツ人の学生、トルコから来たポスドク、オランダ人やポーランド人の訪問研究員、学会で知り合ったイランからの学生、中国の共同研究者等々、公私にわたってこれまで関係を築いてきた彼ら彼女らは、連絡を取ると私からの要望に快く協力してくれました。出不精の私がこれだけ多くの人とつながってこられた理由は、世界中から様々な人が訪れては去っていく、ケンブリッジという大きな研究拠点に滞在しているからに他ありません。
そしてもうひとつ、より重要だと思うのは、自分自身の中にある科学に対する態度の変化(手前味噌ながら成長、といってもいいかもしれません)でした。
こちらに来るまで、私は生物多様性保全に対して科学者が果たすことのできる役割をかなり懐疑的に、むしろ諦めにも近いような気持ちで、見ていたように思います。保全生物学者としていろいろな研究はできる。しかしその研究が対象とした種や生態系の状態を改善していくために本当に貢献できるかと言うと、正直言ってそれはまた別の問題、と割り切っていました。
ケンブリッジに来てから、文字通り浴びるように多くの研究者の言葉を聞き、また直接言葉を交わすようになってから、その考えは徐々に変わっていきました。ここには本当に多くの研究者が世界中からやってきます。学生やポスドク、研究室主宰者として所属するために、セミナーで話をするためやサバティカル期間中に、また様々な形の訪問研究員として、国内外の研究者がひっきりなしにやってきます。いわゆる「優秀な」研究者、多くの論文を著名な雑誌に発表しているような研究者にも数多く会ってきました。しかし、その中で話を聞いて、話をして本当に心を動かされるのは、“make a difference”というフレーズを本当に体現している人、より具体的に言うならば、保全科学の分野では「世界」(この場合、地球全体という意味の世界だけに限らず、対象とする系とか社会といった意味ですが)をよくするために本当に変えようとしている人だと気付くようになりました、
例えば渡英後ずっと研究室に受け入れてくれているSutherland教授は、議論の端々で、「solution(解決策)は何だろうか?」と聞いてきます。生物多様性保全に対して科学的な貢献を目指すためには、問題を提起するだけではなく、具体的な解決策まで提示して、実際に世界をよりよくしていかなければならない、そういった姿勢を常に感じます。彼は以前、ある学会のために寸劇を作ったことがあるそうです。それは「舞台上である人が突然倒れ、多くの医者が駆けつけるが、皆で倒れた人がどれだけ長生きすべきだったのかを研究する方法を議論するばかりで、誰もその人を蘇生させようとしない。」というもので、彼なりに今の保全に関わる科学の問題点を指摘しているものでした。そんな周囲の研究者の姿勢に感化され、私ももっと真正面から世界の現状をよりよくしていくための科学を追求していっていいのだと気付かされました。
そうやって考えた時に、生物多様性保全のための科学は、生物を見ているだけの保全生物学だけでは必ずしも「世界に違いを」もたらすことができず、良くも悪くも今や地球環境の命運を握っている人類自身の動態や行動、意思決定も見ていかなければならない、そこまでを含めて「保全科学」と呼ばれているのだということを、身をもって理解することができました。
同時に、目も眩むような能力や実績を備えた研究者があふれている中で、どうすれば自分も保全科学の世界で、そして実際の生物多様性保全に対して貢献ができるのだろうかと、必死に考えるようになりました。その結果たどり着いたのが、保全科学における「情報のギャップ」という問題でした(詳しくはこちらの論文を参照)。
このように自分の研究に対する姿勢が大きく変化して、その姿勢や問題意識を初めてひとつの形とすることができたのが、今回の論文でした。そういった意味でもこの論文は自分にとっても特別な論文で、これを機会に今後も自分ひとりの力は微力ながら、常に“make a difference”を目指した研究を志していきたいと思います。
もちろん「違いを作り出す科学」が海外でないとできないと言いたいわけではありません。ただ私にとってはこのように自分の研究に対する考えが変わったことが、そして端的に言えばこの論文を書けたことが、今感じる海外に来たことの大きな利点のひとつだったと思うのです。他にも「明日、リュックサックを持って海外へ行け」に私が同意する理由はいくつかあるのですが、それについてはまた機会があればということで、この文章はここまでとしたいと思います。
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