海外での研究シリーズとして、オーストラリアで研究されている天野達也さんの記事を数回に分けてお届けします。天野さんは鳥学通信で以前「アマノノニッキ in ケンブリッジ」を連載されており(その1 | その2 | その3)、その続編となります。お楽しみに。(広報委員 上沖)
皆さんこんにちは。オーストラリア・クイーンズランド大学の天野と申します。2019年3月にイギリスのケンブリッジ大学からこちらに異動して、既に3年以上が経過しました。そのうち2年半はコロナ禍ということもあって、何もかもバタバタしていてオーストラリアへの異動についてどこかでお話するような機会もありませんでした。
ところが先日、突然ブリスベンに現れた上沖さんから鳥学通信への寄稿のお話をいただきましたので、回想する形になってしまいますが、異動の経緯やオーストラリアの研究環境について、また現在のプロジェクトなどについて、数回に分けてお伝えできればと思います。
まず今回は、なぜオーストラリアに異動することにしたか、についてです。
これはもちろん様々な要因が組み合わさった結果なのですが、大きく分けて二つの理由がありました。
一つ目は、ケンブリッジに8年間滞在し、そろそろ環境を変えるタイミングなのかなと感じたことにあります。
去る直前のケンブリッジの様子
ケンブリッジには2008年から一年間を在外研究として、また2011年から2019年まではJSPSの海外特別研究員、European CommissionのMarie-Curie Fellowship、さらに他2つのポスドクという立場で滞在していました。その間本当に素晴らしい環境で研究ができ、家族共々ケンブリッジという美しい街のことを、離れて何年も経った今となってもとても気に入っています。ケンブリッジでは研究職も比較的多くあるので、選り好みしなければもっと長く滞在することができたかもしれません。
ただ一方で、自分の研究も続けつつそろそろ研究室主宰者(PI)になるという次のステージに移りたいとも思い始めていました。そこでNERC FellowshipとRoyal Society Fellowshipという制度にも2回ずつ応募しましたが、採用されませんでした。ケンブリッジ大学では他に関連分野でのPIの応募は滞在中皆無で、PIになるためにはイギリスの他大学に移るか、他国に移るかのどちらかしか選択肢はありません。
そこでケンブリッジ滞在後期には日本でのポジションにもいくつか応募しました。ケンブリッジには世界各国から学生やearly-career researcher(ECR)が集まってきており、その多くは何年かすると自国でポジションを得て帰って行きます。そんな姿を見ていて、自分もまた日本で研究したいという意欲が高まった時期があったのですが、結果としてご縁はありませんでした。
一方で、ケンブリッジにとても愛着があったので、イギリスの他大学でのポジションへの応募にはなかなか踏ん切りがつきませんでした。
もう一つの理由としては、環境を大きく変えてでも追及してみたいアイディアが出てきたという点があります。
ケンブリッジではウィリアム・サザーランド教授という本当に素晴らしい共同研究者且つメンターと多くの時間を過ごすことができました。特に彼が始めたConservation Evidenceという一大プロジェクトの成長を計10年程も間近で見ることができたことは、私の研究者人生にとってのとてつもなく大きな財産です。
まだ彼のプロジェクトに1人か2人しかメンバーがいなかった時期に、彼の自宅の近くを散歩しながら、なぜこのプロジェクトを始めたのか尋ねたことがありました。彼の答えは、「ニック・ディビスはカッコー、ティム・クラットンブロックであればミーアキャット(共にケンブリッジ大の著名な教授)、といったように多くの研究者にはその人の強みというものがある。自分もそういったものが欲しかった。」といったものでした。その時はそんなものかと思ったのですが、その後10年をかけて、一つのアイディアに多くの人を巻き込んで、本当にコミュニティや社会に変化をもたらしていく姿を見て、プロジェクトというものはこうやって形にしていくんだなと実感したものです。
この時の会話がその後もずっと頭に残っていて、自分の強みとは、自分が10年や20年かけて形にしていきたいものとは何だろうと自問する日々が続きました。
当時私は世界規模の水鳥モニタリングデータを解析することで、生物多様性の変化を明らかにし、その駆動要因を特定するという研究に取り組んでいました。それ自体は大変重要な課題であり、自分としてもやりがいを持って取り組んでいましたし、今でも続けています。ただ一方で似たような研究を行っている人も多く、正直なところ自分がやらなくてもこの分野の研究は何の問題もなく進んでいくだろうなと感じていました。あのグループがこんな論文を出した、こちらのグループはこの雑誌で発表した、といったような目で自分が周囲を見てしまうことにも、自分自身が周囲からそのように見られることにも嫌気がさしていました。そんなこともあって、世界中で誰もやっていない重要な課題、そして自分でないとできないことに取り組みたいと強く感じるようになりました。
幸いなことにその「自分でないとできないこと」の目星はある程度ついていたのです。2016年に言葉の壁が科学に及ぼす影響について論じた論文を発表していたのですが、ちょっとした思いつきで始めたこの論文に対して、周囲から大きな反響があることは感じていました。この論文の延長として趣味的に始めた作業を核として、それなりの研究計画をまとめることもできました。その研究計画をサザーランド氏や同僚に話した感触も上々でした。
とすれば、あとはその計画をどう実行するかだけです。するとちょうどその頃、オーストラリアでFuture Fellowshipというmid-career researcher向けのフェローシップがあることを共同研究者から聞いていました。一般にフェローシップとは研究に重点を置きながら学生の指導なども行うPIポジションで、制度の特性も私の意図によく合致しています。ただ多くのフェローシップはECR向けで、学位取得から10年以上経過していた私が応募できるものはほぼなく、学位取得から5-15年の人を対象とするオーストラリアのFuture Fellowshipは珍しい例と言えます。余談ですが、私のように学位取得後何年か経ってから海外に出る(私の場合は5年後でした)ことの利点として、経験や技術、アプローチなどがある程度確立できていることがある一方、ECR向けのフェローシップのように応募できる制度が後々限られてくるという点は欠点として挙げられると思います。
妻とも相談し、英語圏でイギリスと文化的にも比較的近いオーストラリアであれば、医療や育児、治安の面でも安心だろうという結論になりました。
いずれにしても、相当の時間と労力をかけて渾身の申請書を書き上げ、Future Fellowshipに応募しました。数か月経って、採用が発表された日のことは今でもよく覚えています。イギリスにしては珍しく暑く寝苦しい夜から目覚めた朝、受け入れ先となったクイーンズランド大学・生物科学部の学部長と、後に同僚となる何人かの研究者から祝福のメールがあり、また大学のニュースサイトでも他の採用者と共に紹介されていました。
自分の提案した研究計画が評価されたという喜び、新しい国や環境に向かうという興奮と共に、長らく滞在したケンブリッジとイギリスを本当に離れるんだなという寂しさが同時にこみ上げてきました。ただやはり当時は、とても気に入っていたケンブリッジという環境を離れてでも、新たなステージでのチャレンジをしなければ進歩がないという危機感を抱いていました。そのため、何よりそのチャンスを、しかも言葉の壁という突拍子もない課題に対して与えてくれたAustralian Research Councilに感謝する気持ちが強かったのを覚えています。
既に保育園で友達もできていた当時3歳の娘が引っ越しにどう反応するか心配でしたが、ビーチやカンガルー、コアラ、クジラが出てくるプロモーション動画を見せ、この国に行くんだよと伝えると、想像以上にあっさりと「いいね!」の一言をもらい安心しました。
残されたケンブリッジでの日々は本当に貴重な時間でした。サザーランド氏を始め多くの人たちが新しい門出を祝福すると同時に私が去ることを残念がってくれましたし、あらゆる道端や建物に様々な思い出が染みついているこの小さく美しい街に別れを告げるのは、本当に寂しいものでした。
送別会の様子
いつものように寒い2月のある日、機内から後ろへと流れていく”Heathrow”の文字を見納めとして、日本経由でオーストラリアはブリスベンへと向かいました。
今回のところはここまでとし、次の原稿ではオーストラリアでの研究環境について書きたいと思います。