1.序
個体数のカウントデータを伴う研究発表は本学会で毎年多数見られる.ところが,個体数の増減を扱う基本的手法の一つである個体群行列モデルを用いる研究はほとんど見られない.このような現状を鑑み,その普及を図る目的で,生育段階と生活史,個体群行列の固有値という数学,行列成分のデータからの統計的推定という三つの基本概念を解説する自由集会を企画した.また,集団内変異や個体差という生態学の概念について,科学哲学の視点からダーウィンの進化論を起源とする集団的思考に関する解説も行った.20–30名の参加者のほぼすべてが若手会員だった.3つの話題について数学や哲学の話を聞くことは初めてに近い人が多く見えたので,これからのデータ解析や野外調査現場とつながりやすい話題も混ぜるよう意識した.
2.生残・成長・繁殖を表す個体群行列
鳥類に個体群行列モデルを適用した研究の多くは,個体を幼鳥や成鳥,または幼鳥,亜成鳥,成鳥という生育段階に分ける.幼鳥が生残すれば翌年,(亜)成鳥に成長する.成鳥は繁殖し幼鳥を生む.この過程を,各生育段階の個体数をベクトル,生残,成長,繁殖を個体群行列と呼ばれる行列で表し,ベクトルと行列の積という数学で表現するのが個体群行列モデルである.もっとも,これだけなら,数学は単に個体数の変化を計算させる便利な道具でしかない.ところで,個体数がある生育段階では増え,別な生育段階では減ったりすると,個体群全体として増加傾向にあるのか減少傾向にあるのかよくわからない.ところが,線形代数学の定理を用いれば,同じ個体群行列による個体数の変動が続くと,次第にどの生育段階の個体数も同じ率で変動するようになり,その率(個体群成長率)は個体群行列の固有値で与えられることが示される(高田・島谷,2022,3章参照).さらに,例えば稀少種の保全を図るうえで,営巣地の保護と成鳥の生残のどちらに重点を置くべきかの一つの指標として,感度分析という手法も確立されている(高田・島谷,2022,5章参照).
2000年代に入り,複数の個体群を局所個体群と捉え,全体を一つの個体群とみなし,各個体が属する局所個体群を生育段階に組み入れ,局所個体群間の移出や移入を生育段階の推移として個体群行列の中で扱う研究が盛んに行われている.特に,局所個体群として渡り鳥の越冬地や巣箱を設置した地域を用いることにより,もし移出が移入を上回れば,その越冬地や巣箱はその個体群の維持,成長に貢献するsourceとして働き,移入が上回ればsinkとなっていると判断する.生育段階のアイデア次第で,様々な斬新な研究を実践できるのである.
ところで,生育段階とは,基本的には個体差や集団内変異に基づく個体のカテゴリー分けである.この最初のステップの理解を深めるには,集団的思考というキーワードについて科学哲学の視点から学習することを推奨する.
3.集団的思考と誤差論的考え方
チャールズ・ダーウィンは自然選択説を唱えたことで有名だが,自然選択が働くための条件は,生物集団に変異があり,その変異が適応度の違いをもたらし,変異が遺伝することである.このように,集団内変異が自然選択の条件の根底をなしている.集団現象を捉えるときに,集団を構成する個々の対象の振舞いを積み上げていくのでなく,集団内変異に焦点を当て,集団自体を基礎的なものとする思考の枠組みを,エルンスト・マイアは「集団的思考(population thinking)」と呼んだ.現代進化論はこの集団的思考に依拠しており,マイアは集団的思考の生物学への導入をダーウィンの偉業として讃えた.
集団的思考を精緻にしたのは,ダーウィンの従弟フランシス・ゴールトンである.ゴールトンはダーウィンの『種の起源』に感銘を受け,進化論を数学的に表現する先駆的な研究をはじめた.その際,参考にしたのが,社会学に誤差論を導入した社会学者アドルフ・ケトレーの研究である.ここで誤差論とは,測定値から誤差を取り除いて真値を求めるための理論である.測定において本来知りたいのは真値であるが,測定値には誤差が不可避的に含まれるため,真値を直接測定できない.同じ対象を繰返し測ると測定値はばらき,真値は一つだけのはずなのに,測定値は誤差によりずれてしまう.だが,測定回数を増やしていくと,測定結果の分布はしだいに釣鐘型に近づいていく.この釣鐘型の分布は「ガウス分布」と呼ばれ,誤差論ではガウス分布の平均は真値とされ,真値と測定値のずれは誤差とみなされる.ケトレーはこの解釈をもとに,人についても平均を典型的な特徴として捉え,その平均的特徴をもつ架空の人を「平均人」と呼んだ.このように,ケトレーは分布を扱ったが,集団内変異を重視せず,あくまで平均に注目した.誤差論では,集団内変異は単なる誤差にすぎず,真値が推定されれば誤差は用済みとされる.
一方,集団内変異に注目し,分布の捉え方を大きく変えたのが先述のゴールトンである.人の身体的特徴や精神的特徴を測定することが人間の本性の理解につながると考え,さまざまな人種や階級の人を測定した.その結果,例えば身長や知能は,どの人種や階級で測定してもガウス分布になることを実証し,釣鐘型分布がどこにでも見られる現象であることを確信した.誤差論では,ガウス分布の平均を真値として,測定値のばらつきを誤差とみなす.実在の特性は真値である平均のみで,ばらつきは誤差にすぎず,実在の特性を表してはいない.それに対し,ゴールトンにとって,同じ釣鐘型分布はもはや単なる測定誤差ではなく,分布自体に法則が働くような集団の特性を示すものであった.ゴールトンにとって,釣鐘型分布の平均は実在する真値ではなく代表値の一つであり,分布のばらつきは誤差ではなく実在する集団の特性を表す.実際,フランス議員たちの身長やスコットランド兵たちの胸囲の測定値のばらつきは実在する.同じ釣鐘型分布でも誤差論とゴールトンでは解釈が異なるのである.そこでゴールトンは,ガウス分布と呼ばれている釣鐘型分布に,集団が示す「正常」で当たり前の現象という意味で「Normal Distribution」という新しい名前を与えた(日本語では彼の意図が反映されず,「正規分布」と訳される).誤差論は誤差を取り除いて真値を推定することが目的であるが,ゴールトンにとって,正規分布の有するばらつきこそが失われないよう残したかったものである.ゴールトンの分布の捉え方はその後,ロナルド・フィッシャーたちを通じて,現代の進化論や統計学に受け継がれている.
さて,個体群行列モデルに話を戻そう.生育段階ごとの繁殖率や生残率など行列の各要素を,データと統計モデルからなるべく正確に推定しようとするのは(次節参照),誤差論的考え方である.一方,生育段階に分け,それらの個体数のばらつきが個体群の特性を示すというのは,集団的思考に依拠している.すなわち,個体群行列モデルには誤差論的考え方と集団的思考の二つが混在している.
鳥類研究の現場においても,この二つの見方が混在している.例えば,鳥の体サイズを測るとき,なるべく正確に測ろうと二回計って平均をとるのは誤差論的考え方,体サイズの分布をみるのは集団的思考である.おそらく,鳥学会会員の多くはこの二つの見方を区別しないで実践してきている.分布についての二つの捉え方を意識して区別することで,数理モデルや統計モデルに関する概念的理解は深まるにちがいない.
4.行列成分の統計モデルによる推定
個体に標識を付け,毎年,発見調査を行う.発見できれば,その個体は生残していたことがわかる.一方,発見できなかった場合,それは,その個体が死亡したからか,生残していたのに発見に失敗したかを判断できない.しかし,発見調査を繰り返し,発見できたか,できなかったかというデータに統計モデルを適用すれば,生残率と発見率を分離して推定できる(高田・島谷 2022,4章参照).
大切なのは,生残率と発見率の推定は,標識調査を繰り返すだけではできず,一回こっきりの発見調査データに統計モデルを適用してもできず,両者を併用することではじめて可能になる点である.生育段階が齢の場合,幼鳥は生残したら(亜)成鳥へ推移し,繁殖調査と合わせて個体群行列の成分が推定される.なお,限られたデータからの推定なので,その不確かさも明示しておくことが望まれる.ベイズ統計により,行列成分とそこから計算される固有値(個体群成長率)を事後分布という確率分布で不確実さを明示できる(高田・島谷 2022,6章参照).
5.結語に代えて:
標識調査のすすめ 個体群行列モデルを用いる研究の実践において,個体識別して経年的に追跡したデータは一つの出発点である.概して動物に標識を付ける作業は,捕獲技術や動物倫理など,解決すべき問題は多い.幸いなことに,鳥類では足環という個体識別技術が確立されており,国内においても膨大な標識調査データが蓄積されている.
標識調査は動植物問わず野外生物調査の一つの基本であるが,それだけからからわかることは,移出と死亡の区別をつけられないなど,決して多くない.標識データを基盤に置き,そこに本学会で見られるような独自仕様の様々なオリジナルデータと複合させることで,二種類のデータは相互作用し,得られる成果は大きく膨張するのである.
ところが,標識調査データを踏まえた研究発表が,鳥学会では驚くほど稀少である.本自由集会を企画する際,鳥学会会員の大半は標識データをダウンロードし保有しているものと思い込んでいた.どうして蓄積されているはずの標識調査データが共有され活用されていないのか.何人もの会員に尋ねたが,理由はわからないままである.
<参考文献>
高田荘則・島谷健一郎 (2022) 個体群生態学と行列モデル:統計学がつなぐ野外調査と数理の世界.近代科学社,東京.
森元良太 (2015) 集団的思考:集団現象を捉える思考の枠組み.哲學 134: 33–54.
森元良太・田中泉吏 (2016) 生物学の哲学入門.勁草書房,東京.