ヨーロッパの大学院に留学してみた ③ドイツでの生活

前回「②フランスでの生活」はこちら

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冬のブロッケン鉄道。蒸気機関車でブロッケン山を駆け上がる。

ドイツに来た瞬間のことは今でもよく覚えている。
フランスから来る鉄道との乗り換え駅であるシュトゥットガルト。12月下旬の凍てつく空気のなか、鉄道のホームで1時間半ほど待っていた私の身体は芯まで冷え切っていた。大荷物を抱えて高速列車ICEに乗り込み、その席に座った瞬間、もわもわした生地の座席にふわっと包み込まれた感じがした。「ああ私は帰ってきたんだ」とかいう妙に格好つけた台詞とともに不思議な安心感を味わった。(たぶん座席が温かかっただけ)

順調な滑り出しで、私のドイツ生活は始まった。マックスプランク鳥類学研究所は自然のなかにぽつんと建物が落ちてきたのかと思うほど周りが緑にかこまれている。自然好きには素晴らしいロケーションだった。そこで研究している人たちはみな温かく、太田さんの記事でも以前言及されていたように皆が英語で話してくれるので、意思疎通がとりやすくて安心して生活できた。

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研究室のメンバーでバードソンに参加。朝から晩まで鳥を探して自転車で走り回った。

しかし研究はなかなか思い通りにいかなかった。日本の研究室で相手にしていたのは動物の標本や分子実験道具、コンピューターの画面だった。しかし行動を知りたいと思ったら対象になるのは生きている動物だ。計画通り・予想通りにいかないことが多くて、研究の締切が決まっている身としては焦る。先生たちに何度「彼らは機械じゃないから、心配しすぎないで」と言われたことだろう。

そしてコロナ禍の留学で一番つらいこと、孤独が降りかかってきた。日本との時差は夏時間で7時間、冬の時間で8時間ある。こちらが仕事終わりにさぁ家族や友達と話したいとおもっても向こうは深夜である。悲しいことがあっても、嬉しいことがあっても、共有できる人がいなくてため込んでしまう。そして現地の友達も多くない上に皆多忙だ。研究所は大学ではないから修士の学生が自分を除いて一人もおらず、6月までパーティーなんてひとつもなかったので人と知り合う機会がない。感染予防のために研究室の部屋も個室を与えてもらっているので、過ごそうと思えば一度も言葉を発しなくても一日過ごせてしまう。話す人がいないので言語も上達しない。研究のディスカッションが思うようにできない。恥ずかしい。悔しい。だんだんヒトと話すのが怖くなって、そのままディプレッションのなかへずぶずぶと。残る話し相手は実験対象のカナリアたちだけだ。

そんな私をみてフランス人の先輩がはっきりと一言。「ハナ、土日は休みなさい!」

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研究室の先輩と初めてのアルプス登山。私は滑って転んで帰りは半泣きだった。

先輩のアドバイスに従って、週末は山にいったり、サイクリングしてみたり、電車で少し遠い街に出かけてみたりと頭をすっからかんにして遊ぶようになった。小さいときから運動神経のかけらもない私だが、出かけるための体力をつけようと思って筋トレと運動も少し始めてみた。鳥を見に行く体力もついて、ヨーロッパの食事でだらしなくなっていたお腹も健康的になり、ストレス発散もできて、一石二鳥どころではない。そうして充実した週末を過ごしてから月曜日を迎えると、びっくりするくらい気持ちよく、さあ頑張ろう!という気になれる。お昼にキッチンで人と会えば、週末の楽しかったことで盛り上がれるので話題にも困らず自然に会話ができてありがたい。

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ローテンブルクの可愛らしい街並み。電車と自転車で行くのに6時間かかったが、その価値がある街だった。実はシュバシコウの巣が写っている。
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ドイツとオーストリアの国境からアルプスを望む。

フランス人の先輩曰く「フランスは世界で一番時間を効率良くつかう国」らしい。休むときはしっかり休み、働く時は時間を決めて集中して取り組む。このやり方は私もとても気に入った。先輩に、おかげでとても調子がいいですと伝えると、「ハナが良い働き方を学んでくれて嬉しい」とにっこり笑って言ってくれた。

Netflixのドラマ「エミリー、パリへ行く」に出てくるフランス人が言った “I think the Americans have the wrong balance. You live to work. We work to live.” という言葉にとても共感した。自分の生活と研究とは別のところにあるという認識で過ごすことが大事なように思う。

あんなにフランスから脱出したかったのに、結局私にはフランスが必要らしい。

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ヨーロッパの大学院に留学してみた ②フランスでの生活

前回「①留学のきっかけ」 はこちら

フランスでの生活を一言で表すなら、暗黒時代だ。中二病みたいなことを言っていると思うがウルトラスーパーダークナイトメアという気持ちで日々を過ごしていた。
さて、すべてがわからない。文字通り、すべてである。スーパーの買い物の仕方、洗濯機の使い方、交通機関の乗り方。銀行口座を作ろうにも予約の取り方がわからないし、ようやく銀行にたどり着いたと思えば銀行のドアは閉まっていて入れない(後に、ブザーを押せば開けてもらえることが判明した)。とにかく本当に些細なことで何度も躓いて何一つ予定通りに進まないので自分に嫌気がさした。

授業が始まると強いフレンチアクセントの英語に、そしてグループワークに苦しんだ。毎週の成績は最低ライン。自分だけなら良いが、グループでは私の拙い英語のせいで皆の足を引っ張っているのがとても苦痛だった。クラスメートは7割方フランス人で、留学生もヨーロッパ圏から来た英語が超堪能な優秀な人ばかり。皆母国語で講師とディスカッションができたし、そうでなくても英語で素晴らしいプレゼンテーションやエッセイを披露した。自分にはどちらもできなかった。

カルチャーショックにも苦しんだ。道路の状況や食品管理など、潔癖症の日本人が見たら気が狂いそうな違いだった。複数人の会話では他人の話に割り込むくらいの勢いで話さないと、何時間たっても発言の機会は一向に回ってこない。そして彼らはお酒をよく飲んだ。授業は9時から18時まであってそのあと課題をこなしていたら一日が終わるはずなのに、クラスメートは毎日のように夜の街に繰り出していた。その余裕とお金は一体どこから出てくるのか!

私は黒い虫がたくさん出るかつ北向きという条件の悪い部屋に住んでいたことも重なって、日照時間が短くなるとともに私のライフも削られていった。

1.5週間くらいの長期休暇があったので、気分転換に地中海沿いの街へ行ってみた。波の音を聞きながら紺碧に透き通った地中海と空を眺めていると、心が洗われる気がした。もうずっと一生このまま海を見ているだけでもよい。夢心地な地中海の誘惑であった。しかし目が覚めると、今度は勉強や課題をしていない自分の状況により焦ってしまって結局逆効果だった。

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(写真左)コートダジュールの名にふさわしい青(写真右)バルセロナではオキナインコが大繁殖していた

 

そんな私の精神に重くのしかかってきたのはインターンシップの受入先探しだった。私のコースでは、修了要件として、世界中どこの生物音響学の研究室でもよいから6か月間インターンとして働いてそこで修士論文を書いてきなさい、となっていた。しかし、まずもってどうやって受入れ先を探せば良いかもわからない。面白そうだと思った研究者に必死なメールを送ってみたが、研究資金も業績もない学生を誰が受け入れてくれるというのか。7割方無視されるか断られた。前向きな返事をくださった先生方も数人いたが、はっきりとした返事はまだもらえていなかった。一方で周りのクラスメートは南アフリカやらカリフォルニアやらスペインやらに行く準備をし始めていて、私は焦りを感じていた。

そこで私を救ってくださったのはまたしても相馬先生だった。先生の紹介のおかげで運良く、私はドイツのマックスプランク鳥類学研究所にインターン先を見つけることができた。まるで空から垂れてきた蜘蛛の糸であった。また私は相馬先生のお世話になってしまった。自分の力なさに呆れた。しかし、どうにもならない時には、助けを求めれることも大事だ。このご恩はこれから研究を頑張ってお返ししなければならない。

そして12月のどんよりしたフランスに、救世主のごとく颯爽と現れたのは、休暇にいらしていた太田菜央(マックスプランク鳥類学研究所)さん。同じ研究分野の先輩と母国語で話せるというのはなんとありがたいことか。この時私は数か月ぶりに対面で日本語を話したので、非常に変な感じがした。内容が同じでも、英語で話すのと日本語で話すのとでは得られる充足感が全く違う。思っていることを思うままの表現を用いて吐き出せる。自分の意図した話のオチのところで相手も笑ってくれる。なんて話しやすいんだ!太田さんの優しい人柄も大いに関係していると思うが、会話のノリというか、同じ文化のバックグラウンドをもっているというのは会話において意外と重要な要素かもしれない。太田さんとはドイツでまた会いましょうということでその場を別れた。

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(写真右)クリスマス一色のコルマールの街(写真左)クリスマスツリーのなかにいたイエスズメ。

 

クリスマス直前、五藤を乗せた列車はイルミネーションの輝くサンテティエンヌの街を後にした。彼女はフランスの大学での授業の単位を取り終えたので、ドイツでのインターンシップに向かうのだ。新しい環境に不安そうな顔をしているかのように見えるが、どうやら頭の中はキラキラふわふわしたものでいっぱいだ。どうせクリスマスマーケットのことしか考えていないのだろう。全くのんきなことである。

だがもうこれでウルトラスーパーダークナイトメアにはAdieu!

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ヨーロッパの大学院に留学してみた ①留学のきっかけ

コロナやウクライナ侵攻の影響で海外渡航しにくい情勢が続いていますが、そうした中でも特に若い世代には外の世界に目を向けて、将来の可能性を広げて欲しいと感じています。前回の太田菜央さんの記事に続き、同じくヨーロッパにて留学中の五藤花さんから留学体験記が届きました。実際に海外で活躍する方の様子を知ることで、今後の進路を考えている方々への刺激となれば幸いです。第1回目は「留学のきっかけ」で、月1程度のシリーズとして数回に分けて掲載予定です。お楽しみに。(広報委員 上沖)
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私の大学があるサンテティエンヌの街並み。これは街のうち綺麗な一部の切り抜きである。

 

2021年9月1日。フランスの玄関口、パリ・シャルルドゴール空港は、いつも通り大荷物を抱えた外国人でごった返していた。トリコロールを背負ったフランスのオリンピック・パラリンピック選手団は迎えの人々とビズを交わしている。そのなかに、周りより明らかに小さい日本人がぽつんと立っていた。名前は五藤花。彼女はこれからフランスの大学院に通って、生物音響学の修士号を取るのだ。さぞかし夢と希望でいっぱいに輝いているであろうと思われたその顔は、汗と涙でぐちゃぐちゃであった。

時はさかのぼって2021年2月。雪の降りつもる北海道大学札幌キャンパス。吹雪に耐え聳え立つ理学部棟の一室で、私は相馬先生と向かい合って座っていた。当時自分の卒業研究の限界にショックを受け、今後の方向性を見失っていた私は、高校生のときから憧れ尊敬していた相馬先生を頼った。先生ならきっと何かよいアドバイスをくれるだろうと。

「五藤さん留学とか興味ある?」
「あります!」(食い気味に)
「ちょうど数日前メーリングリストで回ってきたところで、フランスで生物音響学のコースが今年から始まるみたい」

やはり先生は私に希望の光を投げかけてくださった。研究室に帰って、教えてもらった募集要項を見ているうちに、体中の血が湧きたつような感覚に襲われた。コースの名前は「International Master of Bioacoustics」。Bio(生物)acoustics(音響学)という名前だけあって、鳥の歌の講義はもちろん、爬虫類、哺乳類、昆虫、両生類、魚、ありとあらゆる動物が作り出す音についての講義が毎日開かれる。使用言語は英語で、講師はフランスだけでなく欧米諸国のあらゆるところからやってくるようだ。講義だけではない。実習も豊富で、毎日午後は実際に音響解析ソフトに触れてみたり、なんと一週間もスイス国境の山に行って野外実習をさせてもらえたりするらしい。

美しい写真を添えて描かれる魅力的なプログラムに、私は一気に魅了された。その上授業料は日本の国立大の5分の1だった。フランスに詳しい知人に聞いてみると、大学が位置するサンテティエンヌは比較的治安の良い街らしいし、生活費もパリほど高くないようだ。

コロナがどうなるか不安ではあったが、知人に背中を押され、家族に了承をとってアプライすることにした。生まれて初めてCV(履歴書)とapplication letterを書くことになった。それはアルバイトのために書いたことのある履歴書や志望動機とは全く違った。書き方はネットや本を参考に、たくさんの人に添削してもらって、研究業績もなければ大した英語力や成績の証明もないところを、未来のポテンシャルと情熱で補うようにしてなんとか書き上げた。ところでこれは後日談だが、私がフランスに行くと言い出したときは、あまりの唐突さに誰も私が本気だと思っていなかったらしい。勧めてくれた相馬先生でさえ私がアプライしたことに驚いていた。

アプライから2か月ほど過ぎた5月末、ようやく合否通知のメールが来た。長文の英語に目が滑った。そしてやっと意味を飲み込んだ時、北大のセイコーマートで烏龍茶を飲んでいた私は、驚きと興奮のあまり危うく持っているものをこぼしかけた。

その時から怒涛のように日々が過ぎ去った。授業が始まるのは9月上旬だ。あと3か月しかない。切れていたパスポートの申請、入学書類のやり取り、フランスのビザの申請、東京のフランス大使館での面接、フランスでの住居探し、北大の休学届、引っ越しの準備やワクチン接種と証明書の準備など、やったことを挙げればきりがない。ましてや、やり取りは慣れない英語やフランス語がほとんどである。その間も授業や研究は並行していたので日々頭の中はこんがらがり、身体的にも疲労困憊であった。

しかしこんなのは今の私にはお茶の子さいさいだ。全部日本でできたのだから。

そして9月、パリの空港で私は途方に暮れていた。飛行機は2時間近く遅れ、空港のWi-Fiはつながらず、コロナの陰性証明が必要だと言われて空港内で大荷物を振り回しながらあたふた駆け回り、やっと鉄道駅に着いたと思えば予約していた高速列車を2回も逃し、数万円(学生にはかなりの金額だ)を無駄にしたうえ助けてくれる人は皆無であった。英語もなんとか通じるが、たどたどしいフランス語には誰もまともに取り合ってくれない。

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空港の鉄道駅。大勢の旅客がマスクをして、大荷物両手に改札へ向かう

 

そしてこんなのはまだ序の口だった。それはそれは大変なフランスでの生活が、私を待ち受けていた。

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